■夏休みのアリエッティ展は避けていたので久しぶりの都現美(MOT)。子供向けシフトが終わったMOTは本気モードで、トランスフォーメーション展、オランダのアート&デザイン新言語展、常設ではピピロッティ・リストやら森万里子やら。すごい。本当にすごい。
トランスフォーメーションとメタモルフォーゼは漠然と似たようなものというイメージを持っていたけれど、メタモルフォーゼは「変容」であるのに対して、トランスフォーメーションはずっとダイナミックに、異なるものへ変換されていくことを指しているニュアンスを持つようだ。
会場入って最初に出迎えられる作品〈新生児〉(パトリシア・ピッチニーニ/2010)が展覧会で展示されている作品全体を象徴している。人のようであり人でない〈新生児〉は一言で言ってしまえば「フリーク」の姿だ。しかし、次の作品〈サンドマン〉(パトリシア・ピッチニーニ/2002)に登場するのは首にエラを持つ女性の姿であり、この展示会では彼らの姿がスタンダードであり、フリークとはもう呼ばれないわけだ。ただ、エラは首にあっても面積が足りないと思う。鎖骨の下あたりの肺組織に直結した方がいいのでは。
それら変換/変化した姿は、人間という生物の可能性を示している。しかし、その姿を観ていると居心地の悪さを感じずにはいられない。
変換/変形は、内因性により変化する、むしろ「メタモルフォーゼ」と呼ぶ方が適切なパターンがあり、次に外因性の、他者により強制的に変化させられるパターンがあり、そして、「ペルソナ」としての、擬態としての変化がある。内因性の変換/変形は可能性であり、外因性による(環境への適応ではない)強制的な変化は暴力であり、ペルソナ/擬態は旧来の本質を残しつつも表面的には変化する、内因的/外因的変化・変形の中間的な性格を持つ。
そして、そのどのパターンにせよ少なからずアイデンティティは揺らぐ。可能性は示されるものの自分が自分で無いものへ変わってしまうことへの畏れ、恐怖。変化してしまった他者を前にして自らの規範が揺るがされることへの畏れと変化への反発からくる怒り。古いものと新しいものの混在によるアイデンティティの混乱。
アイデンティティを自分自身による自身の定義とすれば、その一つは自分の形の同一性であり、また一つは自分が属する集団の規範との同一性ということになるだろう。「トランスフォーメーション展」ではそのいずれもが揺るがされることになる。居心地の悪さはそこに由来するのだろう。
印象に残るのはバールティ・ケールの人と獣の姿が混交された像やヤン・ファーブルの獣のトロフィーに似た、角を生やした多数の頭部の彫像作品群、スプツニ子!の作品は表層としてまず単純なコスプレという手法があり、その上でさらに変容した人間の姿を2重に描く。高木正勝の映像作品も美しく、豊穣なイメージが奔流となる。
オランダのデザイン展は「トランスフォーメーション展」を観た後だと印象が薄い。常設のピピロッティリストは以前原美の「からから展」で観た作品に比べるとだいぶ弱い印象。意外と良かったのはアンデパンダン展で、単発で観ただけでは古びた作品という印象しか持たなかっただろうと思うのですが、まとまっていると当時の熱気というか、権威に対抗するのだという勢いのようなものが伝わってきて面白かったです。確かに時代の空気のようなものがそれぞれの作品の中に入り込んでいるのだということが実感できたように思いました。