■森美術館で「フレンチ・ウィンドウ」を観た後に乃木坂へ移動。国立新美術館へ。シュルリアリズム展は人が多いので見ずに「アーティスト・ファイル2011」を観る。都現美の「アーティスト・アニュアル」とコンセプトは似ているけど、特に新人・中堅というわけではなく、国際的に活躍しているアーティストで、日本作家とも限っていない。
参加作家はクリスティン・ベイカー、バードヘッド、タラ・ドノヴァン、岩熊力也、鬼頭健吾、松江泰治、ビョルン・メルクス、中井川由季の8名。ドローイング、写真、インスタレーション、ビデオ、彫刻と表現方法もさまざま。
クリスティン・ベイカーはクラッシュシーンなど荒々しい場面をビビッドな色彩で抽象的に組み立てていた。同じ抽象画でも岩熊力也の作品はディテールには荒っぽいものもあるのだけど、全体としてはどこか幽玄な山水画のよう。ただ、具体的に山河を描いているようでもなく、ただ穏やかな印象が残る。
松江泰治の作品は世界各地の都市景観の俯瞰写真や、荒地を俯瞰撮影したビデオ。直前に森美で観た'A Flat World'(クロード・クロースキィ)を連想させる。各地の特徴をクローズアップするのではなく、引いた場所から見下ろす。キャプションに具体的な地名はなく、アルファベット3文字の空港コードのようなもので記される。匿名化された景観はそれでもだいたいの国は区別がつくものの、等価な存在として併置される。
同じ写真作品でもバードヘッドの作品は人の目線にまで降りた、おそらく今の上海の空気を伝えている。印象的なのは街の看板から抜き出した文字で漢詩を構成した作品で、大意は「昔も未来も、今からは遠い」といったところか。その言葉に含まれる強烈な同時代意識がバードヘッドのスタンスをよく表していると思う。
タラ・ドノヴァンの彫像は展示室の壁面を大きく使う作品で、「霞」にしろ「無題(マイラー・テープ)」にしろ展示空間に何かの存在を感じさせる。造形としては「無題(マイラー・テープ)」が好みで、無機質の結晶が生物のように壁面沿いに増殖したかのようだ。細部はフラクタル様に細かく入り組み、レース編みに似た美しさを持つ。
同じ彫像でも中井川由季の作品は重く、ただし、柔らかい。石の塊が変形し、あるいは変形しつつある過程を形にしているようで、石のような表面を持つ生物を観ているようでもある。見た目は石(岩)なので、重たそうだが、それが柔軟に変形している様をみると、あまり重さを感じないようにも思う。
インスタレーションで面白かったのは鬼頭健吾の作品で、無数のスカーフをパッチワークのようにした大型の布のしたに送風して波打たせる。見た目がコタツ布団のようでもあり、それがゆるやかに波打つ様はユーモラスでもある。
ビョルン・メルクスはビデオインスタレーション作品。「マーフィー」は戦争映画の音声にあわせ、スクリーンをフラッシュさせる。色や光の強さが音の大きさや音が示す刺激に対応していることが解る。ただ、フラッシュを見続けるのはつらい。「夜番 | ナイトウォッチ」は「マーフィー」よりは穏やかだが、やはり音声や影像情報がもたらす情緒的な反応を色に置き換えているようだ。
振り返ってみると印象に残ったのはタラ・ドノヴァンと鬼頭健吾両氏の作品だろうか。展示空間そのものを支配するような作品がいつも印象に残るようだ。