■福岡市美で大浦こころとやなぎみわを堪能した後、地下鉄で再び天神へ。天神IMSにあるアルティアムで、志賀理江子の「カナリア」展が始まっていたから。志賀理江子は写真作品を発表している。ただ、彼女が写すものは、記録映像というよりは、イメージを写真の形で表現している。状況をセットアップして写真を撮り、ポストプロダクションも介在していて、その意味ではフョトショップなどによるレタッチ処理に似ていると思うのだけど、あくまでも写真の光学・化学処理でとどめていることが、その特殊なイメージに生々しい感触を残しているように思う。
会場では志賀による各写真のキャプションや、撮影に至る経緯などが記された書籍「カナリア門」も展示されている。個々の写真はそれぞれ断片的なイメージではあるけれど、それが連続することで一つのコンテキストを構成する。写真が撮られた場所や、背景、撮影者の動機は、実はそれほど連続性はなく、強いて言えば、そこに共通するのは撮影者の内的世界しかない。だから、閲覧者がそこに何か物語を見出してしまうのは錯覚なのだけど、撮影者の内的世界というバックグラウンドを掬い上げている部分があるのは確かではないかと思う。
現実を写しつつも、何か現実ではない。何か、尋常ではないことが起きているところに臨場しているという感覚。志賀の作品から受ける印象はその異常な感覚であり、生理的に覚える恐怖感のようなものだ。何かが起きている。あるいは、何かが起こった。しかしそれが何かはわからない。未知なものを目の当りにしているという感覚。
志賀は「カナリア」を、「炭鉱のカナリア」として引用している。美しく囀る、一酸化炭素のセンサーとして利用された籠の中の小鳥。写された作品の、それぞれの場所、それぞれの時に感じられたものは、不安のイメージだったのではないか。それぞれの場所で感じ取られた不安の種を拾い上げ、イメージとして定着している。その不安は、しかし、社会的な問題、社会的な危機感といったものではなく、個人的な、内面に向いたものの集積であるように感じられ、そのことが閲覧者に客観的なメッセージを与えるのではなく、心をざわつかせる恐怖感のようなものを呼び起こすのだろう。