■東京オペラシティアートギャラリーで鈴木理策の個展「意識の流れ」がはじまった。景色を観る、記憶の中の風景を思い出す、写真を観る、そうした映像を観たときにおこる「意識の流れ」を意識する。水、雪、桜、花。それらの景色をカメラは捕えるが、写真を撮り続けて自覚するようになるのは、カメラで撮られるように人はモノを視てはいないということだ。カメラはその画角にあるものをまんべんなくとらえるが、人は意識を向けたものだけを「意識」していて、それ以外のものは見えていない。観ているはずだけど、認識していない。
──そうした展覧会のコンセプトは解るのだけど、しかし、写真を見に来る側はそれぞれがそれぞれに写真のイメージを観てそれぞれに認識を行うわけで、作家の「意識の流れ」を追いかけることは難しい。ただ、写真として写されたイメージを現実の景色かのように認識する、というのは現実認識の信頼性にもかかわってくる話で面白いと思う。しかし、それも、人が現実と思って認識しているイメージは所詮視神経を経由して把握されたイメージであって、その情報を脳が等価に扱えるものであれば現実として認識されてしまう。もっとも、現実を写真と取り違えることはまずないので、意識されていないところでは厳密に区別されているのではないかと思う。
写真を観て面白いと思うことは、できあがったイメージを観てみると、カメラのファインダーを覗いていた時には見えていなかったものが映り込んでいることが往々にしてあることで、その認識プロセスの違いは面白い。
それとは別に展示された写真を観て、それがどういう技術で撮影されたのかはさすがにぼんやりと解るようになってきたのだけど、そもそもそういう目線で景色を観ていないことに気づかされることも面白かった点です。同じ景色であっても違う人が撮影すると、違うイメージとして仕上がってくるのだと思います。