■名古屋入りする前に、愛知県周辺でコンテンポラリアートを観ることのできる施設というのは一応調べていた。結果としてわかったことは、やはり東京・横浜のような状況にはないということだった。意識して観るようになって半年もたっていないで何を生意気なことを、という話ではあるけれど、やはり残念ではあった。美術館が無いわけではなくて、実際のところ近代美術館はたくさんある。もしかするとバブルの残照なのかもしれないけれど、あちこちにある。
三重県立美術館もその存在はキャッチアップできていて、ただ近代美術館という認識しかなくて、脚を運ぶことは無いと思っていた。思っていたのだけど、ローカルニュースをあたっていたら「液晶絵画」という企画が扱われていることを知った。ただ、なんていうか、それって普通のビデオインスタレーションていうか、映像作品なんじゃないの? というか、なんとなく想像はできたのですが、とにかく脚を運んでみることに。名前だけには聞いていた津にも行ってみたかったし。
三重は愛知の隣とは言え、名古屋から津までは片道1時間。自分の土地感覚にマッピングすると横浜から津田沼へ移動するような感覚でしょうか。晴天の土曜日で、昼前に到着。駅西口前の鰻屋で炭火焼を食べました。関東の方だとタレででろでろになっていますが、こちらのはサクサクな食感が特徴かしらん。おいしいですよ。
駅前ターミナルから伸びる道を10分ほど歩いて美術館に到着。歩いていて妙に居心地が良かったのは、見える景観がどことなく横浜・根岸線の南の方と似通っているからかしらん。市街化調整区域が設定されていたりしたのかな。海岸沿いで起伏のある地勢は確かに横浜の金沢区南部あたりと似ています。
そんなことはともかく。
『液晶絵画・スティル/モーション』というタイトルから、普通の絵画のように映像を見せて、実はそれが動いている、という形式の作品を集めたのだろうと想像できたのですが、半分当たっていました。使用されているのはシャープのおそらくHD液晶パネルで、そこはさすがの解像度でした。ただ、プロジェクタ作品も半分ほどあって、まあ確かに最近のプロジェクタは内部の映像表示で液晶を使っているから液晶絵画と言えないこともないのでしょうが、それは捻りすぎというものでしょう。普通のプロジェクタ作品が半分ほどを占めていました。
面白かったのはやなぎみわ『Fortunetelling』で、タロー占いをする幼女とそれを聴く老女の仮面を被った幼女のペアを手前に配し、その背後にとっくみあいをする幼女と老女の仮面を被った幼女のもう一組のペアを配したビデオ作品。そこに死へ向かう運命と、死に抗う意思を見て取れるというのはさておいて、さすがにHD映像だと《映像くささ》が少ないですね。先日原美術館で鑑賞したピピロッティ・リストだとむしろその映像くささを強調するような加工をしたものもあったのですが、『Fortunetelling』は解像度と映像の中の構図、シンボリックな素材の配置と質感が相まって確かに「動いている絵画」のような雰囲気を持っていました。
ブライアン・イーノの映像作品も展示されていて、こちらは期待通りの静謐さ。他には楊福東『雀村往東』で記録された犬が哀れ。中国の寒村での冬季の場面を延々と記録しているだけなのだけど、暖かく、別に食事に困ることもない村民が暮らす一方で、犬たちはサバイバルに明け暮れて、弱い犬は餓えて死んでいく。
それは単に中国の寒村で毎年のように繰り返される光景だと受け止めることもできるし、豊かに暮らす人々の社会とその裏にある餓えた犬の群れのような社会という構造の暗喩と受け取めることもできる。
それにしても、今は映像作品やビデオインスタレーションは珍しくないのに、なぜ実験的作品のような扱いで紹介しているんだろう。美術館としては近代絵画というフレームワークから外れることができなかったのだろうか。公営の美術館となると地元とのしがらみは逃れないという話も聞くし、地元のシャープ(亀山工場)を担ぎ出してなんとかビデオ展示の切り口を作ったということなのかしらん。
帰りには駅前で一口まんじゅう(10コ1パックで110円)と天むすを買いました。天むすはともかく、まんじゅうは、これいくら一口サイズとはいえ、安いですよ。