■震災後の福島での原発事故以来、海外の美術作品を借り受けることが難しくなっているという話を見かけることが多くなり、幾つかの美術展は中止になったりしていたのだけど、そんな中で森美術館の「フレンチ・ウィンドウ展」は無事に公開。森美だからなのか、あるいはすでに借り受けていたから公開できのか、そのあたりの事情は見当もつきませんが観客としてはあまり関係ないことで、単純に公開できたことを歓迎して、観に行けばよいわけで。
「フレンチ・ウィンドウ」はデュシャンの同名タイトルの作品から拝借していて、デュシャン以降のフランス現代美術シーンを紹介する「窓」になっている。ちょっと面白かったのは、美術展の最初にデュシャンの作品が展示されているのですが、これが全て京都国立近代美術館所蔵作品で「マイ・フェイバリット展」で観た覚えのあるものが大半。単なるスコップや瓶乾燥台とかは、デュシャンの頃には意味が大きかったと思うのですが、さすがに今となっては美術館にそうした展示があっても驚かないというか、まあ、普通かなあと思ってしまう。
「フレンチ・ウィンドウ」というか、「フレッシュ・ウィドウ」も展示されていて、ただしその窓は黒く潰されている。フレッシュ・ウィドウでフレンチ・ウィンドウというのは要するに言葉遊びで、デュシャンはそうした作品が多かったのだと。「なりたて未亡人」を窓枠に置き換えるというのは感覚的な対応物の置き換えをしているわけで、それは普段使っている認知フレームを逸脱しているためにそのフレームの存在を意識させる効果を持っている。デュシャンにそうした意図があったかどうかは別にして。
「窓」は室内と室外を隔てる境界に作られた穴であって、室内にいる人は窓を通して外界を見る。窓はその外界を見る「制約」や「フィルター」の暗喩として解釈することも可能だ。その意味で面白かったのはマチュー・メルシエの〈無題〉で、この作品はデュシャンの「フレッシュ・ウィドウ」をアクリルで制作している。全てアクリルであるため、見た目は窓も窓枠も透過となるが、窓が無くなっているわけではない。現実を直接見ているようでいて、依然窓越しに見ていることは変わらないことを示しているのか、あるいは窓が塞がれていたデュシャンの「窓」が透明になった時に見える景色を見せようとしたのか。この作品の背景に使われたのは森美から見える東京のランドスケープであり、今の社会を分断する「空気」のようなものを表しているようにも見えました。
他にはニコラ・ムーランの廃墟を写した写真や、フィリップ・ラメットの人を喰った写真のシリーズなどが印象に残った。最近の日本の若手作品に多く感じる湿気た印象がなく、軽く乾いた仕上がりになっているようで、心地よかった展覧会でした。