■ちょうど先週終わってしまったけど、2008.7.6まで東京都現代美術館では、「大岩オスカール:夢みる世界」展を開催していた。大岩オスカール──大岩オスカール幸男はサンパウロ生まれの日系2世ブラジル人。都現美の広報ポスターの絵は、ぼやぼやっとした優しい雰囲気の絵で、展示会全体もそういう雰囲気なのかと思えば、そんなことはありませんでした。
会場に入って最初に出迎えられるのは、《ホワイト(オス)カー(森)》という壁いっぱいに広がった暖緑系の絵。日本の下町っぽいところにかわいらしい車が入り込んでいる。そこは町のようなんだけど、よく見ると遠景はあいまいにぼやけて木々に溶け込んでいる。リアルなランドスケープではなくて、ぼんやりとした、どちらかといえばファンタジーな雰囲気。ああ、それで「夢みる世界」なのか。
夢に見る世界、ではなく、世界そのものが見ている夢のようなビジョン。荒れた都市の景色は、ありそうでいてよく見ると実際の景観としては破綻している。暗く、荒廃した都市景観は否定的な印象はなく、むしろ猥雑な、都市そのものが持っているダイナミズムが顔をのぞかしたような雰囲気。例えば、《カラスの巣》や《野良犬》
確かに明るい、受け入れられるような印象というよりは、見る者に対峙するような絵ではあるけれど、生命感は残っている。そこに住む住人とは独立して、都市そのものが持つ生命力のような。もっとも、それは住人には優しくなさそうだけど。
ただ、そうした穏やかな幻想的な世界は、《フラワー・ガーデニング》が展示された部屋あたりから様相を変えていく。壊れた街並みと二重写しになる暖かい花畑にはどこか優しい空気を感じるのだけど、そこに紛れもない原爆ドームが描かれていることに気が付くと、その花の乱舞が実はゼロ・アワーであることを意識させられる。何より、その《花》にはあるべき茎も葉もない。花のガクが広がるだけなのだ。
《ガーデニング(マンハッタン)》は俯瞰した摩天楼の上にビビットな花弁のようなものが幾つも広がる鮮やかな作品なのだけど、その摩天楼街にはエンパイアステートビルらしき影とは別に、大きな翼のような影が落ちている。
ポリティカルなメッセージは「世界中にお届けします」というコピーが書かれている《ファイアーショップ》では、もう他に見立てようもない。店の前の通りには鬼火が並び、車が爆発で持ち上がっている。通りの奥は炎と煙で見通すことができない。《ホワイト(オス)カー》が迷い込んだまどろむ景色はそこになく、むしろ覚めることができるなら目覚めたい悪夢に変わってしまった。世界はまたまどろみに戻れるのか。