■久しぶりの金沢21世紀美術館。前回来たのはロン・ミュエック展の時だから、ちょうどだいたい2年ぶりか。今回はヤン・ファーブルと船越桂の二人展。船越桂の彫刻による人物像は書籍カバーなどで目にしていて、なんとなく夏休み時期にありがちな集客企画なのかなあと勝手に想像していたのですが、失礼千万でした。ごめんなさい。これがとても良かったのです。
ヤン・ファーブルは「ファーブル昆虫記」で有名なアンリ・ファーブルの曾孫だそうだけど、特に昆虫との関連はなく。強いて言えば玉虫の羽を、おそらくは天使のメタファとして使っているくらいだけど、別に意識してのものでないのは見て明らか。
そのファーブルの作品からは強く「死」と「孤独」のイメージを感じる。鋲の針を外に向けて触れられることを拒絶する人物像。「青の時間」シリーズに共通するのは死をもたらす存在や死そのもののイメージであり、そのシリーズのうち一つの作品では青く塗られた紙面を切り抜いて「光」が表現される。実体を持つのは青い紙面であり、光は空虚なのだ。
対して船越の作品からタナトスを感じることはなく、感じ取れるものは明るく、穏やかな人間という存在であったり、あるいは永劫に存在し続けるであろう眼差しだ。そこにはファーブルの作品にある、厳格に生を断ち切るような、審判官のような存在ではなく、許しを与える存在を感じさせる。
この展示会では、ファーブルの作品に観られる死生観のバックボーンをキリスト教に還元し、対して船越の作品に観られる寛容の視線を観音菩薩を生んだ仏教へと求める。
寛容、あるいは常に寄り添う他者の存在を感じさせる船越の作品と対比されるとファーブルの作品からは生きることの厳しさと強い孤独を感じ取らずにはいられない。
会場の順路がわかりにくく、受付で渡される会場図が欠かせない。順路に従って歩くと、ファーブルの作品と船越の作品を交互に見ることになり、相互の作品から受ける印象の落差に戸惑う。その落差から生まれる緊張感は最後の部屋で決定的なものになる。そこでは両者の女性をモチーフにした彫像が2つ向き合うが、ファーブルの作品につきまとうのはあくまでもタナトスであり、船越の作品から感じ取れるのはエロスだ。ずいぶんベタな感想だとは思うものの。