■雨の鎌倉。土曜日の午前。神奈川県立近代美術館。岡田和郎展。その名前にはなんとなく見覚えがあって、どこだったかと思っていたら奈義町現代美術館の常設作品を制作した一人だった。「月の間」にしつらえられた〈HISASHI〉の作者。奈義の〈HISASHI〉は単に壁に組みつけられた庇でしかないのだけど、溶けるようなフォルムを持ち、部屋の音響効果も相まって、地上とは別の世界にいるような雰囲気を持っていました。
そんなことを思い出しながら鶴岡八幡宮へ。いかな観光地と言えども土曜日の午前中は人がまだ少ない。「補遺の庭」──補遺とは岡田のコンセプト、「御物補遺」から。普段目にしているものに「何か」を補うことでモノから受け取る意味を変えてしまう。奈義町で見た〈HISASHI〉のように、普段ソリッドなものとして見慣れているただの庇が有機的なフォルムを持つだけで、自分が見ている壁がその見せ掛けの姿を変えようとしているような錯覚を覚える。あるいは「包丁」や「キューピー人形」といった作品はモノの持つフォルムのみを取り出したもので、形は見慣れたものだが、オブジェでしかない。モデルとなったモノの存在を作品にしたのではなく、それが空間に占位していた痕跡を作品にしている。
見慣れたものが見慣れぬものに変貌する空間、美術作品そのものがどうこうというよりも、美術館の展示室全体が異質な場所になってしまう。空間全体の印象を変えてしまう展示というと、以前の内藤礼〈すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している〉もそんな感じだった。
岡田は〈ヒロシマ〉をテーマにした作品も多く作成している。「黒い雨」をモチーフにした作品が多いが、その雨はイコール水であり、その水には浄化の意味もあるという指摘は示唆に富む。確かに黒い雨はフォールアウトを含む大気を浄化した結果ではあった。
別の意味で面白かったのは、広島市現代美術館のいつもの「ヒロシマ展」で岡田の作品を目にした覚えがないことで、その点は少し不思議な気がした。
2Fの展示室を出て、1Fの回廊へ。「枝を立てること」は、以前、内藤礼の〈すべて動物は…〉で「恩寵」が展示されていた空間だが、やはり展示作品によって受ける印象は違っている。内藤の空間は穏やかで切ないほどに繊細だが、岡田の作品は存在感があり、力強い。アニミズム的な聖なる存在がそこにあるような雰囲気をたたえていて、その印象の違いも面白かった。