社内でやりとりされるメッセージは、インナーメッセンジャーサービスによって実現されていた。Y・BayS社は独自開発の特殊なソフトウェアを導入したりはしていなかった。YSPネットワーク内で使用されるメッセンジャーサービスと同じものを使用していた。ただ、社内ネットワークは論理的にYSPネットワークから切り離されていた。「論理的」というのは単にYSPネットと社内ネットとの間でメッセンジャーサービスが行われていないという以上のことを意味しない。物理的な通信回線は構築されているが、利用できないようになっているということだ。――少なくともシステムに手を出さない限り。
水口はメッセンジャーサービスの動作ログを解体していた。ログは耐障害性を持たせるためにホロファイル構造を持っていた。一般のファイルが線形の記録構造を持っているのに対し、ホロファイルでは1つのデータが細切れにされ、重度の冗長性を与えられてファイル全体に分散する。
そのため、ホロファイルはある連続したブロックを読み出すとログ全体の概要を掴むことができるようになっていた。ただし、一部分のみのリードアウトでは不完全に再生されるデータが出てくる。全てのデータを完全に得るためには、ファイル全体を必要とする。
水口は専用のリーダーソフトを使ってログを読み出した。メッセージの受信、配信、不正によるエラーアウトといった動作状況が展開された。水口は特定の時間帯に出力された記録を探す。
――あなたは誰ですか?
わたしは水口。わたしはデータリサーチャー。わたしはクラッカー・バスター。わたしは――。
水口の目が1つのデータレコードにとまる。配信先の端末が水口が使用しているものを指している。発信はキム部長のものではない。社内のどこかからだ。
水口は発信元の端末を特定し、アクセスを試みる。リミテッド・コードをキム部長からもらっていたので、それを試してみるとあっさりと認証が通った。通信データを暗号化するサイファー・ソケットの動作を確認するとリモートでシステムアドミニストレーターを呼び出し、アクセス記録を表示させた。
メッセージが発信された時間帯にその端末を使用していたのは一人だけだった。
そろそろ深夜になろうとしていたが、水口はキムを呼び出した。呼び出しのシグナルはまずキムのオフィスへ飛び、そこの統合端末が彼の携帯端末へ転送した。携帯端末はさらに彼の私室へと転送する。音声のみが返る。
『なんだね。‥‥明日には回せない用件なのかね』
水口は手短にメッセージの件を伝え、発信元の端末を使用したことになっている人物のアリバイを確認するように頼んだ。答えはすぐに戻った。
『その端末は誰も使っていなかったそうだ』
キム部長の声はわずかに上ずっていた。それが驚愕によるものなのか、それとも怒りによるものなのか、水口には解らなかった。
榊は社会モデルの統計情報を表示していたフラットパッドの電源を切った。広い作業机を取り囲んでいたパッドは灰色の薄い不透明なフィルムに戻った。
時計の表示は22時を少し過ぎていることを示していた。榊は部屋の隅に歩くと、アルミのコップにポットからコーヒーを注いだ。そのコップを持ったまま、私室としてあてがわれた隣の部屋に移るつもりだった。空調が動いており、空気が静かに流れていた。
廊下に通じるドアが開いた。
カサハラだった。
「さすがにもう休まれますか」
「だいたいのモデルが組みあがりましたから、続きは明日にしようかと」
「モデル?」
カサハラの眉が吊りあがる。
「説明していませんでしたね」榊はコップをサイドテーブルに置いた。長くなりそうだった。「社会モデルです。ある前提に対して反応するシミュレーションモデル――と言えば分かり易いでしょうか。今は生データのサンプリングをしている段階ですが、そのサンプリングデータの統計と社会モデルから得られる統計データを照合させ、モデルを修正していきます」
「なぜそんなことを」
「新しいゲームを市場に出した時のシミュレーションを行うためですよ」
カサハラはしばらく怪訝そうに榊を見つめていたが、やがて目が大きく見開かれた。
「‥‥なるほど。しかし、今作っているモデルがたまたま最終結果だけ一致しているということもあるのだろう」
榊はうなずいた。
「もちろんその可能性はあります。しかし、わたしは0からモデルを作り上げたわけではなくて、雛形がすでにあるのですよ。もう何年も前から使われているものです」
榊はコップを持ち上げた。
「ところで、他に何か御用件がおありなのではありませんか」
カサハラは苦笑した。榊が訊くのを待ち構えていたようだった。
「ええ。その通りです」そう言ってカサハラは室内を見渡し、窓際に置かれたカウチに目を留めた。「立ち話もなんですから、座って下さい」
カサハラは部屋をゆっくりと横切った。榊は言われるまま、作業用のアダプティブシートに戻った。シートに体重をかけると腰にかかる荷重を最適化するようにシートが変形した。
カサハラは窓に背を向けて座った。不用心なようだが、窓の外側は壁材に偽装され、また熱遮蔽もされているので保安上の問題はそれほどでもなかった。
「実は、連れが一人いるのです」
カサハラは言った。榊は〈生え抜き〉のはにかむ表情というものを初めて見た。――もっとも、それも例によって計算づくの表情なのかもしれないが。
「榊さんもご存知の人ですよ」
榊はぎょっとして部屋の扉を見やった。カサハラの言動は、単なるデータリサーチャーに対するものとしては異例のことだった。榊の脳裏で警戒シグナルが鳴っていた。
「もう来ています。直接挨拶があるでしょう」
榊がベルトに貼り付けている受呼シートが振動した。榊はカサハラを見つめたままトーカユニットを耳にかけた。骨伝動子が顎に密着したのを確認して電話を受ける。
『今晩わ、サカキ。――私を覚えているかしら』
その声は忘れようもなかった。
「メイ‥‥か」榊の指先に川の冷たさが蘇る。胸に抱き上げた時の軽さも。「覚えている。まだ1年と経っていないじゃないか」
『せいぜい2ヶ月。――でも私にはもう何万時間も経ったように感じるわ』
「無事逃げ切れたのか――しかし、カサハラは」
『アムステルダムで私は殺されたわ。カサハラは知っている。厳密な意味で彼は、味方ではないのだけれど、敵でもない』
「一体何が。‥‥殺された?」
『アムステルダムで私は殺され、当地の駐在部が盗難された社員であることを示して回収し、電子インプラントを分離した後、焼却されたわ』
榊は〈生え抜き〉特有の自身を物のように表現するレトリックに眉をひそめた。
「ではお前がメイであるはずがない」
『――でも私はメイではないし、メグミでもない。サカキ、私はそう言ったはずよ』
榊はカサハラを見つめた。カサハラは微笑んだ。
「わたしの役目は実際のところ中継するだけでしてね。わたしはあなたが誰と話しているのかは知りません。その方が良いのです。保安上の理由から」
『彼は立場上、同業他社の人間だから。でも、少なくとも敵ではないわ』
「何をたくらんでいる」
『いずれ教えるわ』
そっけない答えだった。