ストリーム・スニーカー
05. Suspition

 間接照明の柔らかな光で部屋は照らされていた。壁は紫檀の木目が美しかった。どっしりとした楕円のテーブルは壁と同じく木目が美しかったが、こちらは本物の紫檀ではなくイミテーションだった。手触りまで木肌そっくりだが、実際にはデータプロセッサを内臓する、れっきとした事務用品だった。
 水口は楕円の端に腰掛けていた。テーブルの天板からは薄いディスプレイパネルが伸び上がっている。そこには細かい字で契約事項が表示されていた。
 テーブルのもう一方の端にはキム保安部長が座っていた。ポップアップしているディスプレイパネルの向こうで小さく見える。彼の顔はディスプレイの光に照らされていた。
「夜間の休息時間に食い込んでしまい申し訳ない」部長は言った。「お手元のディスプレイに新しい契約が表示されていると思うが」
「ええ、今読んでいるところです」
 水口はディスプレイに触れて契約書をスクロールさせた。冒頭部分はフリーランス一時雇用に関する一般的な内容で、具体的な作業内容と、責任範囲についての記述が続く。無味乾燥な文章が書き連ねられていたが、契約金は魅力的だった。
「内容について何か疑問点は」
 水口は答えに詰まった。まだ、ざっと目を通してしかいなかった。部長は畳み掛けるように続ける。
「契約内容について懸念があるのであれば、この場で遠慮なく言ってもらいたい。仕事としては先ほども申したように、侵入経路の遡上だ」
「ええ‥‥仕事の内容については承知しております」
「技術的に問題点はあるかね」
 水口は少々むっとしないわけにはいかなかった。
「まぁ、問題があるとすれば、相手は当然複数のノードを中継点としているでしょうから、それらノードでのセルリレーを抑えられるかどうかでしょう。どのノードを使うかは、セッションごとに異なりますし、通信経路自体パラレルに張られるのが普通ですから、侵入経路を溯る作業は地道に少しずつ進めていくしかないでしょう。しかし、原理的に不可能というわけではありませんから」
「なるほど。それでは、失礼を承知で質問させていただくが、水口さんは、そうした作業を行う技量をお持ちなのかな」
「作業を行うことはできます」
 明から教わったのだ。
「なるほど。では、契約として問題は無いと」
「ございません」
「結構」部長は笑みを浮かべた。「貴方には期待している。我々としては、事は信用問題に関る。それだけに(YSP/)IPに泣き付くわけにもいかなくてね。本来なら我々の手で解決すべきなのだが、力不足はいかんともしがたい。なんとも‥‥情けない話ではあるがね」
 ディスプレイの中で契約書が勝手にスクロールした。
「契約書にサインを」
「事務所のパッドをセキュアラインで呼び出したいのですが」
「どうぞ」
 水口はディスプレイパネルを使って、一般的なパッド操作を行った。ディスプレイの中でウィンドウが開き、そこに水口は自分の事務所にあるパッドの動作表示を出力させる。ウィンドウとして表示された矩形の領域を通して、水口は事務所のパッドをリモートで操作した。受信したファイルを水口の個人秘匿暗号鍵で暗号化した後、送信するように設定し、ウィンドウを閉じた。
 水口は契約書のファイルを事務所のパッドに送信した。事務所からの返信がすぐに返る。
「サインしました。ご確認を」
 テーブルの向こうでキム部長の手が動いていた。部長は水口が今使っているデータプロセッサ――パッドにアクセスし、暗号化された契約書を吸い上げた。次いで、Y・BayS社の秘匿暗号鍵で暗号化し、開示鍵を添えて水口側のパッドにコピーを送信した。
「契約成立だ。慣例に従って一応断っておくが、そちらに送った契約書はそのクローンがフリーランスデータベース社の審査部門に送付されている。もちろん我々もクローンを一つ保管している。貴方か当社のいずれか、あるいは双方が契約違反の疑いを持った場合、フリーランスデータベース社の審査部門が管理している契約書を元に、同社が審査を行う」
 水口は頷いた。フリーランスデータベース社には水口も登録していた。同社は登録されたフリーランスが受け取る報酬の一部を登録・斡旋料として受け取ることで運営資金を得ていた。従って、その中立性には定評があった。登録されているフリーランスのランク付けと実態がかけ離れていれば、企業から利用されなくなるし、また、契約でトラブルがあった場合、フリーランス側に不利にふるまえば、フリーランスから利用されなくなる。同様のサービスを提供しているのは同社だけはないからだ。
「水口さんは、もう夕食をとられたのかな」
「いいえ」
「それは申し訳なかった。これで私は退散させてもらう。明日に備えてゆっくり休んでもらいたい」
 水口は部長から送付されてきた契約書を事務所に転送した。キム部長が立ち上がる。水口も慌てて立ち上がった。
「それでは。また明日」
 水口は軽く頭を下げた。部長が退室し、ディスプレイにファイル転送終了のサインが瞬いているのを見ても、まだ水口は気がついていなかった。

 〈ピンホール・スキャン〉が既知のあらゆる手段を同時に使って、ターゲット・サイトのセキュリティ・ホールを探し出す。もともとは企業のIS(情報保安)部門やセキュリティコンサルタントがプロテクションレベルを探査するためのツールだが、この手のツールにはよくある話で、アンダーグラウンドを流れていく間に磨き上げられ、侵入ツールのスタンダードになってしまっていた。
 水口が時計に目をやると午前1時を少しまわったところだった。画面にはスキャニングの進行状況を表示するゲージが表示されていた。
 Y・BayS社のキム部長はおそらく水口が使用しているツールについて気がついているのだろうが、何も言ってはこなかった。YSP内での〈ピンホール・スキャン〉使用はYSP/IPの摘発対象になるのだが。
 水口はその点に不安を感じていた。
 〈ピンホール・スキャン〉がセキュリティ・ホールを検出した。それはネットワーク・プロテクションという鉄壁についた僅かな疵でしかない。しかし、〈ピンホール・スキャン〉はその疵を手がかりに次の疵を作り出す。その疵はネットワークユーティリティの些細なバグであることもあるし、僅かな動作タイミングのギャップであることもある。一時的に膨大なデータセルを送り付けて瞬間的にサーバーをダウンさせることもある。そのどれもが〈ピンホール・スキャン〉の侵入経路となり得た。
 〈ピンホール・スキャン〉がターゲット・サイトに侵入経路を確保する。水口はそのサイトでY・BayS社への侵入者の足跡を探すつもりだった。持続的にY・BayS社へ侵入したからには、足跡が必ず残っているはずだった。
 違法行為の足跡。それは水口もまた残していた。残さざるを得なかった。度重なる〈ピンホール・スキャン〉の使用は不必要な注意をひくことになる。特にYSP/IPの注意を引いたりすれば‥‥。
 水口は全身が冷え込むのを感じた。血の気が引いた。
 キム部長は法的問題について触れようとはしていなかった。いや、契約書の内容について触れさせないようにしていたフシすらあった。
 ハメられたかもしれない。水口は思う。しかし、それはある程度承知していたことでもあった。要は使い捨てられないように気をつけることだ。
 明の支援があれば、と水口は思った。

'Stream Sneaker'
Satoshi Saitou
Create : 1998.08.02
Publish: 2010.07.08
Edition: 2
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