森宮がイヤホンを外した。イヤホンコードが生き物のようにうねり、彼女の襟元に吸い込まれる。
「電話が死んだわ」
水口は訊き返した。
「電話回線が遮断された。あなたのワームが荒らしまわっている最中なのよ」
水口はパッドに注意を戻した。彼女が持つパッドは先ほどまで複数の遠隔地にあるパッドと接続されていたが、今はすべてのコネクションが切れていた。再接続はできなかった。パッドは完全なスタンドアローンの状態で動作していた。分散型のユーティリティアプリケーションの類はすべて異常終了していたし、いつも仕事で使っている〈ブリッジ〉用のパッドからのピンガー・エコーもなかった。ピンガー・エコーは非常に原始的な、しかし素朴ゆえに頑丈なプロトコルで、フロントエンドで動作するアプリケーションが使用するプロトコルが通信エラーで使い物にならない時でも、そのプロトコルだけは大抵通った。
「‥‥そのようですね」
ピンガー・エコーが通らないことを知り、水口は自分が行ったことの重大さを実感した。今まで彼女が空気のように利用していたネットワークはもはや存在していない。ネットワークから切り離され、リモートで自分用の環境設定を参照できないパッドは、元どおり他人のパッドに戻っていた。そのよそよそしさ、使い勝手の悪さに水口は閉口した。
「水口さん」森宮が前方を見詰めたまま言った。「あなたは身分章のようなものを持っていますか」
「ID証明なら、与信参照をすれば‥‥」
そこまで言って水口は、今は与信情報管理機関へのアクセスが不可能であることに思い当たった。
「でも、なぜそんなことを」
「TYISPが臨検を張っているわ」
北横浜駅ターミナルブロックビルが下り坂の先に見えていた。過密化が進むYSPから分裂する形で周辺に生まれつつある新しい都市の種子だった。あと数年もすればターミナルブロックビルを取り巻く形で周辺地が住居圏として整備されるだろう。
そのビルブロックへの途中、橋の手前でTYISPの装甲バンが道を塞ぎ、警棒を持った警官が立っているのが見えた。水口は森宮を見た。
「危険は冒せませんね」
森宮は速度を落とし、フロンドガラスの助手席側にロードマップを表示させた。TYISPの交通情報ソースにアクセスできないというエラーメッセージが隅で点滅している。渋滞情報、事故情報、交通規制情報といった交通基礎情報が入らず、ナビゲーションシステムは半身不随の状態だった。
森宮はハンドルを切った。フォルテシモは薄暗い脇道に入りこむ。頭上を木々の枝葉が覆い隠していた。
「TYISPがなぜ」水口は呟いたが、その白々しさに言い直した。「‥‥もう気が付いたのでしょうか」
「それはないと思いますよ」森宮の声は落ち着いていた。「TYISPの反応は標準対応手順に沿っています。情報テロに対する厳戒体制ですよ」
情報テロ、という言葉に水口は緊張した。
「NTNの情報インフラに乗った社会システムは全て消滅してしまった。なぜNTNを潰してしまわないのか、あなたは訊きましたよね」
水口は頷いた。答えは聞かずとも解っていた。
「今、彼らを潰してしまったら、このネットワーク管理するのは誰か、ということです。――言うまでもなく、三系列がばらばらに解体し、それぞれの傘下に収めるでしょう」
その答えは水口も引き出していた。しかし、その続きは水口には予想できないものだった。
「それでは私達にも不利益になる。あなたがたにとっても、最悪でしょう。ネットワークは系列以外に保守させておく必要があるのです。権限は分散されなければならない、というわけです」
水口は怪訝気に森宮の横顔を見つめた。森宮は不意に微笑んだ。
「ですから、今はまだ、NTNを残しておかないとならないのですよ」そして、呟くように付け加える。「将来はともかく」
榊を乗せたヘリは三ッ沢を通り抜け、保土ヶ谷上空に入った。YSP外縁に近づき、YSP/GPのヘリが多数遊弋しているのが見えた。
「まだ後ろにいるのか」
榊は訊いた。銃撃が止んでしばらくたっていた。キャビンの壁はどうにか銃弾を防いでいたが、右側の窓ガラスは無数のひびが走り、真っ白になっていた。
カサハラはパイロットと二言、三言、言葉を交わす。
「まだです」カサハラの声は硬い。「レーダー波を浴びています」
「このままYSPに飛び込むのか。何を考えているんだ」
「我々だって、表には出れませんよ」
カサハラの表情が一瞬空白になった。
「追手が増速しました。揺れにご注意、だそうです」
「墜ちなければ何だっていい」
榊は両手の汗をズボンでぬぐった。他人の操縦に身を委ねる今の状況は、榊に精神的なストレスを与えていた。
「何かに掴まって」
訊き返す間もなく、ヘリは大きく左右に揺れた。ひびで真っ白になっていた窓が砕け、冷たい風がキャビンに吹きこむ。榊は壁のわずかな突起に手をあて、必至で身体を支えた。窓の向こうに渋滞の列が見えていた。その景色は流れ、たちまち暗い地平線が視界に入る。ヘリは大きく機体を傾け、左右にロールを繰り返していた。
カサハラが榊のシートベルトを固定した。榊は言葉を返そうと思ったが、激しく揺さぶられ、何も言うことができない。
何とか首を回して窓の向こうを見た時、榊は追手の姿をはっきりと見ることができた。二重反転ローター、ずんぐりとした機体、機銃。榊には見覚えがあった。昔、水口を乗せて夜のヨコハマを逃げ回った時、榊はその姿を見ていた。
橿原NTN保安部長の声が脳裏に蘇る。忘れることはできなかった。橿原は何が行われたのか気が付いたはずだ。プライマリキーによるネットワーク網施設への破壊活動。それを行えるのは、NTNを除けば榊と水口の二人。橿原は二人を探しているだろう。その一方で、ワームプログラムの影響下からネットワークをサルベージしようとしているはずだ。全ての交換機、プログラマブルノードを物理的にネットワークから切り離し、初期化するだろう。当然、ネットワークは全面的にダウンする。そして――。
機体が反転し、窓の向こうで夜空が流れた。榊は胃がむかつくのを感じる。
――そして、NTNは目をつけていたアングラネットを強襲するだろう。榊は暗鬱な思いに囚われた。元々NTNは個人運用のネットワーク、アングラネットを非合法活動の温床としてしか見ていない。傷つけられたプライドを慰めるには格好の標的だった。
だが、それは、NTNが三系列の爪から逃れるための贄とはならないだろう。NTNと系列の間にあった蜜月はとうに過ぎている。系列はNTNを実力で封じ込め、解体するだろう。一つの系列だけでは他の系列から牽制されるだろうが、この場合、三系列は行動を同じにするだろう。
「牙を抜く」とメイは言った。しかし、それは希望的観測以上のものではない。
窓の外が明るくなった。ヘリはイセザキスーパーモールを低空で飛び越えようとしていた。YSP/GPの見慣れたヘリが平行して飛ぶ。阻止するような動きはなかったが、警戒しているのは明らかだった。電話回線がダウンしていても昔ながらのデジタル無線は使えるはずで、ヘリのパイロットとYSP/GPとの間でそれなりのやりとりがあるはずだ。無線が使えるのは追手の方も同じだが、どうやって武装の言い訳をしているのか、榊には興味があった。
外からフラッシュのような明かりが差しこんだ。遅れて、風音にかき消されそうになっていたが、はっきり爆発と解る音が耳に届いた。
カサハラは風音に負けないよう、半ば叫び声で言った。
「GPが墜とされました」