赤のフォルテシモは坂を登った。しかし、すぐにヘッドライトの光の中、道を塞ぐYSP/GPの車両が浮かび、停車ぜざるを得なかった。バリケードとなった車の前には黄色と黒の縞で彩られた櫛状の歯が数列、道を横断している。
YSP/GPの警官が肩から提げた銃を右手で抑えながら近づいてきた。
森宮はウィンドウシールドを下げた。
「事故ですか」
彼女は訊いた。満月を背負ってシルエットになっている警官は首を振った。
「テロです。――身分証を」
「身分証?」
「ネットワークが混乱しているのもので。――身分証を」
森宮は掌を差し出した。警官が左手に持ったスキャナで彼女の掌をなぞった。森宮の掌には生体磁気組織が移植されている。その組織は生きていて、森宮以外の人間に移植されると免疫反応によって死んでしまう。
「森宮さん、ですか。――お隣の方も」
「彼女はSP外の人間で、わたしの客よ」
「申しわけありませんが、今は非常事態です。身分証をお持ちでないというのでしたら、しばらくPOBの方でお休みになって頂くことになるのですが」
森宮は朗らかな表情を見せて水口の方を見た。
「身分証を持ってるかしら」
「一応は」
水口は社会与信IDカードを取り出した。SPの外で社会サービスを実施している会社は幾つかあり、それら会社の間で共通して使用できるカードだった。
水口はためらいながらカードを森宮にわたした。森宮がそのカードを手にして警官に見せた。警官に渡すようなことはしなかった。
水口は緊張した。NTNは知っているのだから、その情報が流れていると考えるのが自然だ。
『――ミズグチさん』
イヤホンに突然声が流れ、水口はぎょっとした。メイの声だった。
突然のことで水口はしばらく反応することができなかった。隣では森宮と警官が何事もないかのように言葉を交わしている。警官の右手は銃から離れない。
「――身分証そのものは本物ですが‥‥」
「――与信機関を使わないのなら、それ以上のことは望めないでしょう‥‥」
メイの言葉が続く。
『サカキは病院に入っているわ。パッドを使いなさい。物理的にあなたが行くことはない』
水口は膝の上のパッドに目を落とした。パッドに誰かがアクセスしていた。
『キーは替えた方がいいわね‥‥』
パッドはどこかにセッションを張ろうとしているようだった。あちこちにあるサイトをゲートウェイにして、通信路が伸びていく。
「――なるほど、解りました」
警官が言っている。
ヘリが数機、ローター音を隠そうともしないで頭上を抜けていった。
「――あれは?」
森宮が訊いた時、銃声が響いた。
「ここは危険なんです。病院への道はあきらめるように」
「守ってくださらないのかしら」
「とんでもない。なんでしたら、護衛を呼びますが」
「そんな仰々しいものは結構よ。――この道はあきらめて、回り道をするわ」
「ぜひそうしてください」
森宮がバックギアを入れ、カードを水口に返した。警官が離れていく。
「病院にはつながった?」
小声で訊いた。水口は驚いて彼女を見返す。
「回線はこちらにも開いたのよ。‥‥いい加減馴れなさい。いちいち驚いていたら疲れるでしょう」
くすりと笑うと、森宮はシート越しに後ろを振り返り、車を後退させながらハンドルを切った。
水口は森宮の言葉に少々むっとしながらパッドに視線を戻した。イヤホンにメイの声。
『‥‥モリミヤの言う通りよ。馴れた方がいいわね‥‥。もうすぐサカキにつながるわ』
森宮が車を回す。
「榊さんは奥の院に入ったのかしら」
『入ったわ。でも、あなたに聞かすことはできない。‥‥苦しみたくはないでしょう』
「あなた方の抑制が外れるなら、それで構わないのよ」
『あなたに流す情報はフィルタリングするわ』
パッドが相手まで通信路が達したことを通知した。
『‥‥何だって?』榊の声だった。『裕子か。無事だな』
「こちらは何ともないわ。そっちは」
『生きてるよ。どうやら目的地に着いたらしい』
「どこなの」
『病院の地下、らしい』
その時バックミラーが眩しく光った。慌てて水口が後ろを振り返ると、焔が病院の建物をシルエットにしていた。どす黒い煙の塊が月明りを浴びてゆっくりと昇っていく。
「そっちは大丈夫?」
『何を言ってる。さっきそう言っただろ』
「榊さんがいるのは、病院の最深部にある特殊病棟よ。あそこなら心配する必要はないわ。‥‥そうでしょ、メイ」
『メイがいるのか』
『わたしはどこにもいるわ。――サカキ、いまNTNの保安部隊が病院の敷地に強硬着陸した。先遣隊と合流したようね』
『そのことならカサハラから聞いたよ。――急いだ方が良さそうだ』
『そうして。サカキ』
バックミラーの中で、月明りを浴びた病院の建物は小さくなっていく。そして、榊を呼び捨てにするメイの言葉を耳にして、水口は微かな苛立ちを感じずにはいられなかった。ただ、パッドに表示されるトラフィックステータスの数字を見つめる。水口には何もできない。