予想に反し、水口が通されたのは床の感触すら危ういほど毛足の長い絨毯が敷詰められた部屋だった。木更津の植物工場が生産した絹をふんだんに使っていたが、当然、水口には解らなかった。何か壮大な冗談に巻き込まれたのではないかと思った。
YSP/IPにハッキングの現行犯で逮捕され、こんな部屋に入れられるというのは筋に合わない。
部屋は十畳ほどの広さで、高さは3メートルほど。隅にはソファがあり、今は白いシーツが無造作に被せられている。窓は床から天井までの大きさで、厚手の重たそうなカーテンが外を隠している。部屋全体の色調はモスグリーンで統一されている。殺風景な取り調べ室から移されたのがこの部屋だった。
取り調べにそれほど長い時間はかからなかった。
彼らは取引きをもちかけた。ハッキング行為に対する免責と引き換えにY・BayS社での作業内容について話すように求められた。水口に選択の余地はなかった。契約内容を第三者に公開することは守秘義務違反であり、Y・BayS社から契約不履行の申し立てをされかねないのだが、YSPに社会与信を剥奪されるよりは遥かにマシな選択だった。それに、成り行き次第ではY・BayS社が申し立てる機会が無いかもしれないという彼女なりの計算もあった。ひと通り話すと、すぐに彼らは切り上げた。妙にあっさりしている、と水口は思わずにはいられなかった。
ソファには近寄らず、水口は窓際に寄りかかった。窓からは本牧POBの敷地しか見えなかった。乳白色の清潔な建物で取り囲まれた中庭で、褐色のレンガが重なり合う鱗の文様を描くように敷き詰められていた。中央ではひ弱な緑に彩られた樹木が枝を伸ばしている。
――YSP/IPが仕組んだのかもしれない。
これまでの出来事を時系列に沿って注意深くトレースすれば、タイミングが良すぎることが解る。Y・BaySへのハッキング、逆侵入、〈サトル〉の接触、YSP/IPの強襲。ハメられたとしか思えなかった。
相手はY・BayS社だろう。わたしでは無く。
それは苦い認識だった。
Y・BayS社も何が仕掛けられているのか承知していたに違いない。その上で契約を結び――。
水口はY・BaySとの間で更新された契約を詳しく読んでいないことを思い出した。そう、Y・BayS社は知っていた。知った上で曖昧な契約を結んだ。
切り捨て御免のフリーランス。
水口は頭の芯が熱くなるのを感じた。Y・BayS社の後ろにはNTNがいるに違いない。YSP/IPも本当の狙いはNTNにあるに違いない。結局、NTNとYSPとの間にある確執に巻き込まれ、駒として使い捨てられただけなのだ。
しかし、なぜこんなに待遇が良いのだろう。末期を前にしているから?
冗談じゃない。
思わず身体が震えた。兄の身に何が起きたのか、その結果を彼女は知っている。
部屋の扉が開いた。禁欲的な制服に身を固めた婦警が何の表情も見せずに立っていた。作り物のように美しい顔立ちだった。
「水口裕子。身許引き受けがあった。出なさい」
榊が来たのね。全身の緊張がほぐれた。――しかし、ずいぶん早い。
「早く出なさい」
婦警に促され水口は壁から離れた。部屋から殺風景な廊下へ出る。婦警が先に立って水口を誘導した。
「来たのは榊なんですか」
「緑陽のカサハラという人だ」
水口は絶望的な気分になった。POBに留まる方がまだマシだった。
二人は長い廊下を歩き、幾つかのホールを抜けた。途中、何度か武装隊員の列とすれ違う。彼らは緊張していた。張り詰めた空気を水口は感じる。ハッキング事件が原因ではないはずだった。あれはもうケリがついている。
では、NTNなのか。
その想像に水口の全身が粟立った。その反応は自分でも意外だった。NTNを仇と思っていたのに、いつのまにかネットワークで働くフリーランスとしての発想に染まっていた。NTNとYSPの対決。横浜だけではないはずだ。
得体のしれない不安があった。何かが起きている。
婦警は水口を待合室のような場所に導いた。向かいの壁にある無骨な鉄の扉が目を引いた。窓はなかった。壁際に長椅子が並び、仕立ての良さそうなスーツを着た男が座っていた。
「水口裕子さんですね」
立ち上がりざま男が言った。
「緑陽のカサハラです。あなたの身柄を引き受けに参りました」
「どういう事情で緑陽が」
「悪い話ではないと思いますよ。榊さんもこのことはご存知です」
榊が?
婦警が、では失礼、とだけ言って引き上げていった。
「榊はこのことを知っているんですね」
「もちろんです。ちょっとした事情がありましてわたしが表に出ていますが。‥‥そのちょっとした事情はこれからお話します」
カサハラは鉄の扉を押し開けた。扉の向こうは駐機場だった。
「出たり入ったり、忙しい日ね」
「ヘリが待機しています。急いで下さい」
二人はコンクリートの上を走った。冷たい風が水口の髪をまきあげた。幾つものライトが作る影が足元から伸び、錯綜して動いた。
ヘリのローターブレードはゆっくりと回転していた。扉がスライドしたままになっている。カサハラがまず乗り込み、水口が後に続いた。
水口が乗り込む時、中から引き上げてくれる腕があった。余計なおせっかいをするのは誰だ、と顔を上げると榊だった。
「よお」榊は皮肉気に微笑みながら言った。「ドジったな」
冗談で受け答える気分ではなかった。
「ハメられたのよ」
「俺もだ」
どういう意味、と榊を見つめたが答えはなかった。扉が閉まる。エンジンの振動がキャビンに伝わった。
「どこに行くんです」榊がカサハラに訊いている。「LLGW社に戻るんですか」
「あそこには戻りません」
ヘリの浮き上がる感覚があった。
「お二人にはしばらくYSPを離れてもらいます。しかし、我々と行動を共にして下さい」
「誘拐されるみたいね」
「申し訳ありません」
ヘリはPOBを離れ、YSP市街上空を飛ぶ。