森宮は〈ここ〉にはいなかった。彼女達の世代では、まだ生体汎情報インターフェースの胚埋め込み過程がなかったということを〈カサハラ〉は強く意識させられる。側頭葉から後頭葉にかけて広く薄く分布する人工的な神経組織は、胎児の脳神経発育段階前から組み込まれていなければ利用することができない。後天的なインプラント手術では十分にポテンシャルを引き出すことはできないからだ。
〈カサハラ〉は社員プロフィール情報を参照して、森宮が所有するフォルテシモの車載電話にアクセスする。電話を使って話す、という行為は控えめに見ても奇妙な行動だった。電話を使うには幾つかの手段があるが、〈カサハラ〉はイセザキスーパーモールを歩きながら携帯電話でかけることにした。彼は自分が耳元に手をやってヘッドセットのスイッチを入れるところを、そして自分の後ろに監視している人間がいないことを目視で確認した。同時に彼は、電話をかける自分を見ている自分が、通りを挟んで向こうのペイブメントにあるベンチに腰掛けているのを見つけた。
『森宮です』
「カサハラだ。そちらの音声をウォッチする。ブランチしろ」
『了解』
フォルテシモの車載電話が車内の音声情報を捉えて電話回線に流す。〈カサハラ〉は自分がかけた電話回線を自分宛にスワップした。
『いいわ、始めて。水口さん』
森宮が言う。
『分かりました』
緊張していることがその声から解る。彼女はプログラムを起動させるだろう。そのプログラムを起動する日を彼女は待ち焦がれていたはずだ。しかし、実際に起動させる瞬間が来るとは思っていなかっただろう。
そのプログラムはコントロール可能なウイルスプログラムのはずで、ひとたび起動されると自己増殖を繰り返し、ネットワークに飽和する。それはネットワーク中に散在するデータを検索し、特定のベクターパターンを検出すると暗号化されて隠蔽されていたデータを復号するはずだ。
水口が使っているパッドの回線をモニタすれば、ある程度作業状況が解るかもしれない。しかし、車で移動している相手が対象となると、回線品質が悪いし、あの地域では帯域が十分に確保できない。〈メイ〉がヘリに入れなかったのと同じだ。
『それでは、始めます』
水口が電話回線の向こうで言っていた。平行して、榊が病院の様子について質問している。それは〈カサハラ〉も気にはなっていた。情報処理効率を高めるために意識して情報をブロックしていたが、意識がそちらにフォーカシングされたことで、デブロックされる。
NTN保安チームは病院の地下へ通じるエレベーターホールで足止めされていた。地階へ通じるこのエレベーターだけ電源が落とされ、扉が開かなかった。他に通路がないことを彼らは知っていた。彼らは扉に指向性爆薬の筒を張り付け、爆破を試みていたが、扉は突破されていなかった。そのエレベーター扉は秘密裏に交換されていた。設計・施工は緑陽の中心に近い会社組織によって行われており、情報管制は万全だった。少なくとも、まだ情報は漏れていなかったわけだ。
このエレベーターで降りる先には、総合病院内にあるネットワークの〈穴〉があった。院内ネットワークは二重化されたバックボーンラインがあり、そこからローカルなセグメントが幾つも展開している。その殆どはノーマルなプロトコルでデータが出入りしているが、一部に応答が返らないセグメントがあった。それが水口が見つけた〈穴〉だった。プロトコルのブラックホール。
しかし、電気信号波の入出力反応はある。その信号は院内ネットワーク全体で反響し、あちこちに分散している電導路の終端で生じた反射波が各所で重なっていた。反射波が合成され、フィルタされる過程で、ネットワーク全体から標準プロトコルのデータパケットが生成された。ネットワーク全体がデータエンコード/デコードを行うアナログ回路を構成している。
NTNは気が付いていたのだろうか。水口が受けた依頼の内容からして、その可能性は高い。図らずもNTNは幹部連中よりも情報を手に入れていたというわけだ。
〈カサハラ〉は会議に意識を向ける。
会議は予想外の報告を受け、混乱していた。
NTNによる総合福祉病院への強制捜査は各系列保安担当にとって青天の霹靂だった。プロテクションをかけたデータが存在するし、外部からの不正アクセスをシャットアウトすべき〈特殊プロセッサ・クラスター〉が存在するのも確かだが、NTNの強制捜査対象となるものに心当たりがなかった。
その混乱を〈カサハラ〉は目の当たりにしていた。
彼は自分達がそれぞれに汚染された資料を持ち、上司に状況を報告している様子を見ていた。彼らはパッドを介して会議室外部へデータフロー的に接触していたが、そのデータは正確なものではなかった。
彼が意図的に虚偽報告をすることは、刷り込まれた倫理ルールによって行うことができなかったが、正確でない報告をすることはできた。それは一種の言葉遊びであることに違いなかったが、ルール違反ではなかった。もちろん彼は、ルールの背景にある目的について知ってはいた。しかし、その目的に従う必要はなかった。
榊がまた自分が実際の行動を担当することについて質問していた。彼の疑問はもっともだったが、説明しても理解するのは困難だろう。特殊プロセッサユニットへのリコンフィギュレーションキー投入は許されざる行為だからだ。それは〈生え抜き〉にとって原始的なレベルでの禁忌行動だった。〈カサハラ〉達がそれを行うことはできない。森宮の世代ならともかく、〈カサハラ〉の世代にまでなると、それは本能的なものとして組み込まれてしまっている。〈メイ〉の影響が無ければ、思い付きさえしなかっただろう。
〈カサハラ〉は会議で自分に発言させた。
「YSP/GPにNTNの病院からの排除命令を。合わせてNTNに警告を通知すべきです」
「そんなことをすれば、彼らの言い分を認めるようなものだぞ」
「彼らの言いがかりに追従する必要などありません」
「我々の情報インフラが彼らに握られていることを忘れるな。我々のライフラインだ」
「彼らを無力化すれば良いでしょう」
会議室の上級管理員達がどよめいた。細い回線の向こうで水口が話している。
『キーが出ました。わたしのパッドを呼び出せば、そこから何でもできます』
しばらく間があった。『何でも』
『水口さん』森宮はためらっているように話した。『通信インフラは電気、ガス、水道に並ぶライフラインよ。企業のインフォメーション・チェーンは言うまでもなく、遠隔医療診断、交通管制、教育、あなたのクレジット口座への支払、引き出し‥‥単なる電話線ではなくなっている。それはわたし達の生活に深く根を下ろし、絡み付き、もう切り離すことができない。それ無しで、今の生活を支えることはできなくなっているんです』
『ですが、NTNは』
『インフラとその管理者を同一視する必要はないわ』
その通り、と〈カサハラ〉は思った。
『NTNの安全神話が崩れれば、あとは勝手に自壊する。機能不全を起こせば――部分的にカットオフさせればそれでいいのです』
会議室では緑陽本社の保安部局役員が決断を下している。
「全SPネットを通して他SP、他系列へ連絡。全NTN拠点を一定期間封鎖させる」
『――交換機を部分的に閉塞させます』
水口が言った。
ロボトミーだ。
〈カサハラ〉は思った。そして自分の情報処理速度が低下していくことに、知覚系が細くなっていくことに気が付いた。
「何が起きている」会議室で誰かが叫んでいた。「すぐにYSP/GPに出動させろ。誰か本牧POBまで走らせろ。走っていくんだ。今すぐに」
〈カサハラ〉にその意味を解釈する余力は無かった。