古典的なマッチング処理を行うプログラムが膨大な通信ログを呑み込み、消化していった。AI、マトリクスポテンシャル・アルゴリズム、ヒューリスティック・プログラム・ジェネレータ、動的自己再プログラミング。そうした最新のプログラム工学で機能強化されているとはいえ、その原型は1世紀前にまで溯ることができる。
そのプログラムは『不審』な記録をログの中から拾い出す。拾い上げられた記録は入力データとして新たなログを作り出し、データは加工され、新たな意味を持つデータが創り出される。
新しいログは解析アプリケーションプログラムに流れ込む。そこで言わば終末処理がなされ、可視化されたデータとして形を与えられる。形を与えられたデータはもはや再加工不可能となり、DTP用の素材として使いまわされる他流通することは無くなる。
水口は終末処理されたログの名残を眺めた。クライアントが用意したマルチレイヤーディスプレイにリストが複数列表示されている。未加工のままの、いわゆる『生ログ』と、そこから抽出された不審なデータが生ログと照応するように並び、対応が一目で分かるようグラフィックレイヤーがかぶさっていた。 水口はその対応が妥当なものであるのか頭を悩ました。ワーキングチェアに体重を預け、椅子の内装が体型に応じて変形していくのをじっくりと感じていた。どこからかエアコンディショナーの静かなモーター音が聞こえていた。室温は適切に保たれているはずだが、全身はじっとりと汗ばんでいた。こめかみのあたりに焼け付くような痛みがあった。緊張のしすぎだった。
水口は通算して12時間ほど、この大量の生ログと格闘していた。文字通り格闘だった。生ログは全56万2374件のレコードを持つものと、81万2344件のレコードを持つものがあった。それは3日前の午前10時00分から正午までのデータトランスポートレイヤーにおけるアクセスログだった。
うち件数の少ない方はクライアント側のゲートウェイで採取されたものだった。もう一方のログは出所不明だった。少なくとも水口は聞かされていなかった。クライアントのサイトから上流にあたるネットワークハブでのログらしいと水口は見当をつけていた。
きなくさい話だった。そのログの出所がどうであれ、合法的な手段で入手したものではなさそうだった。依頼の内容から推測して、その可能性は高かった。
水口はデスクの上にあるボトルを持ち上げ、コップにミネラルウォーターを注いだ。コップの脇にはささやかながらアイスボックスがあり、そこから氷を3つほど取ってコップに落とした。
電話が鳴った。
「水口です」
ディスプレイの一部にウィンドウが広がり、そこに依頼人の顔が映った。キム保安部長だった。ヨコハマベイエリア・ショッピングストリーム社(Y・BayS)のセキュリティ責任者ということになる。
『水口さん。そろそろ約束の時間なのだが‥‥どんな具合かね』
水口は反射的に微笑んでいた。
「目鼻はついた、といったところでしょうか。報告書としての体裁を整えるにはあとしばらくお時間を頂きたいのですが」
キムは渋面を作った。不機嫌でなくともそうした表情を作る男だった。
『口頭で構わない。概要程度でもこのラインで報告してくれないか』
「部長の方はデータプロセサを使えますか」
『使用中なのだが‥‥まぁ、いい、このラインでシンクさせて構わない』
「では、できるだけ手短に済ませましょう」
水口はディスプレイの表面に指で触れ、コントロールパネルのビジュアルを呼び出した。アクティブのコミュニケーションラインを経由してキムのデータプロセッサ側に水口側の画面を同期表示させる。キムの側では新しいウィンドウが開き、その中に水口側の画面イメージが表示されているはずだった。
水口は操作モードを変更し、画面に触れた。指先と接触する位置に〈指差しマーク〉が表示される。
「結論から言って、御社の緊急スクラムシステムは突破されています。前衛のファイアーウォールは無効化されていると見なして良いでしょう」
『信じられん』
「侵入者はセルダビングを行ったと思われます。御社と顧客間での通信が傍受され複製され、合成されて流れたわけです」
『1秒切り替えのノンサイクリックパッド暗号を使っているんだ。それは不可能だろう』
「わたしもそう思いました」間髪入れずに水口は答えた。「しかしログによれば数十ミリ秒単位でのラグでダビングされたセルが流れ込んでいる形跡があります。これは‥‥わたしの勘でしかありませんが、専用のハードウェアを使われているのではないかと」
『情報テロというわけか』
「さぁ、そこまでは‥‥」
『侵入元まではたどれていない?』
「残念ながら、そこまでは」
『これが君との契約の範囲外であることはこちらも重々承知しているが、引き続いて侵入者の足跡を溯ってもらいたい。もちろん契約を更新し、それなりの報酬を用意させてもらう。どうだろうか』
どこかでこれが違法行為になりかねないというアラームが鳴っていた。こうした仕事は、特別行政区内であればYSP/IP(横浜特別行政区・情報警察)の管轄だ。一介のデータリサーチャーが大っぴらに振る舞える領域ではない。しかし、これは初めての大仕事になる。明にもこれほどの仕事はそうそう舞い込んだりはしない。
「契約内容を確認してからお答えしたいのですが」
『もちろんそれで構わない。今日中に連絡する』
キムの顔がディスプレイからワイプアウトした。水口は全身の筋肉が強張っていることに気がついた。両腕を前につき出すと関節が鳴った。知らず知らずのうちにずいぶん緊張していたらしい。
水口はわずかの間、弛緩した気分を久しぶりに味わった。
しかし、いつまでもゆるんではいられない。水口はログデータの再検討を始めた。先ほど水口が説明した侵入手段、データセルのダビングという仮説を補強する証拠を明確にしておきたかった。
Y・BayS社は外部とのデータコネクションが商売道具となっているため、偏執的なセキュリティ手段をとることができない。認証段階で基本となっているのはRSA系の半公開暗号鍵群方式だが、Y・BaySではその暗号鍵に時間函数暗号を加え、同じ鍵のビット列が繰り返しネットワーク上を流れないようにした。この方式の主眼は実は暗号化されたデータが複号されないようにすることではない。暗号化に使用している函数が知られないようにする点にある。
しかし、データセルがダビングされた場合、認証段階をすり抜けることができる。1秒単位で時間暗号要素が更新されていたとしても、暗号化された中身がまるまるコピーされては意味が無い。
もちろん、それで実際に侵入し影響力を行使するには、さらに通常通信モードでの暗号処理をクリアする必要があるが、通常通信で複雑な暗号処理は処理時間がかかるためY・BayS社も他社の例のもれず〈軽い〉暗号処理で済ましている。〈軽い〉暗号は認証時のものに比べ短い時間で突破することが可能だ。特に一般的な顧客を相手にしている場合、暗号処理もスタンダードなものになる傾向がある。それだけ〈コードブレーク〉される危険性は高い。
しかし、他人が使っているデータセルをダビングしているということは、誰かが余分にアクセスしていることになる。そうしたクレームがついているということをキムは説明してはいなかった。
水口はログが表示されたディスプレイを見つめた。
もしかすると。
ダビングされたデータセルは一般顧客のものではなく、リモートメンテナンスのものかもしれない。もし、そうだとすれば、Y・BayS社の緊急スクラムシステムは無効化どころか、とっくに解体されているかもしれない。
水口はキム部長を呼び出そうとし、思いとどまった。
まだ証拠が薄い。まだ駄目だ。
水口は空気のよどみがちな部屋で、再びログの解析作業に没頭しはじめた。