あなたの切り札、と彼女は言った。
暗がりに沈むキャビンの中、榊と水口は顔を見合わせた。
「切り札って、あのキーのこと?」
「解凍の仕方は知っているよな」
水口は頷いた。
『使うのに何か問題でも』
ヘリは地表をなめて緑陽の物流基地へ接近する。窓の外が明るくなっていた。
「‥‥あれは、個人的なものじゃないんだ」
『データリサーチャー仲間の共有財産?』
「いや、もっと私的なものだが‥‥いわば、一種の保険だ。個人的な知り合いや、その同類を守るための。冗談ではなく命がかかっている」
『何から守るの』
「NTNだ」
『それなら問題は無いわ、サカキ。わたしを信じて』
「問題ないって」水口が口を開いた。「それは、つまり、NTNを潰してしまうっていうことなの」
答えが返るまでにしばらくの間があった。
『微妙な質問ね。――そう、牙を抜くつもりではあるわ。でも、潰したりはしない』
「なぜ」
『あなたはリサーチャーとして、まだ若いのね』
榊が吹き出した。水口が睨み付ける。
「答えて欲しいわ」
『サカキに訊きなさい。彼なら理由が解るでしょう』
そうなの? と彼女は榊を見やった。榊は戸惑っていた。メイが言わんとすることは見当がついていた。しかし、メイ達の狙いがどこにあるのか、何を求めているのかが解らなかった。答らしきものを聞くたびに不安が増していた。
「知ってるの?」
水口が訊いた。榊はそれに答えようとしたが、その前にヘリが着陸した。
「時間がありません。急いでください」
カサハラにうながされ、水口が答を聞く機会は失われてしまった。カサハラが乱暴に扉を引き開けた。二人はコンクリートのヘリポートに降り立った。
『そのまま正面の扉へ』
ヘリポートの端には倉庫が並んでいた。アルミフレームとセラミックパネルからなる建物がナトリウムランプの光を浴びて幾つも連なる。聞こえるのはヘリのガスタービンエンジンが生み出す甲高い鳴声と、回転するローターブレードが作る風切り音だけだった。
二人に続いてカサハラも降りると、ヘリは即座に上昇した。ヘリを浮かすだけの運動量を持つ風がエアポートを叩く。榊と水口はたまらずに背を丸めた。
「総合福祉病院へ行くんだよな」強風の中で喘ぎながら榊は呟いた。「歩いて行くのか」
『ビジネスヘリでヨコハマ上空の観光飛行でも楽しみますか』
「十分堪能したよ」
『大丈夫。足は用意してあります』
倉庫まで20メートルほどあった。3人は走った。ヘリが飛び去ってしまうと、周囲に響くのは彼らの靴音だけだった。生暖かい風が流れていた。
「243」と大書された倉庫に走ると、その大きな扉が僅かに開いた。人ひとりが通り抜けられる程度の隙間が生まれる。倉庫の中までにナトリウムランプの光は届かず、照明もついてはおらず、外から内部を伺うことはできなかった。
三人が倉庫に入ると、扉が閉められた。代わりに照明が点けられ、暗闇の中に閉じ込められるようなことは無かった。
そこはコンテナの壁で囲まれた小さな空間だった。無人貨物コンテナトレーラーが運び込んだコンテナのうち、温度・湿度管理の必要なものが、この自動管理倉庫に集められていた。コンテナの横腹には白黒のチェッカーブロックコードが描きこまれ、倉庫は任意のコンテナをコンテナトレーラーに引き渡すことができた。要するにこの倉庫群はビデオメモリブロックのジュークボックスをそのまま大型化したものだった。人間の管理者は、ここにはいない。機械的なトラブルや設備整備にはメンテナーロボットが対応していた。
人間の相手をする警備員と、彼らが使用する設備を整備する作業員しかここにはいなかった。少なくとも公式にはそういうことになっている。
しかし、今は違うようだった。
「お久しぶりですね」
物陰から声を掛けられ、榊と水口は驚いて振り向いた。水口が小さく声を上げた。そこには禁欲的なスーツに身を固めた女性が立っていた。
「知り合いか?」
榊が囁く。水口はそれに直接には答えなかった。
「森宮さん」
「その節はお世話になりましたね」
「なぜ、貴方が」
水口は自然と彼女の方に歩きだしていた。榊はカサハラを見やった。カサハラはいつもの微笑みすら浮かべず、榊を見返した。
知っていたわけか。榊は彼の表情をそう読みとった。榊のイヤホンにメイの言葉が流れる。音場が巧みに調整されていて、その声は榊と森宮の中間付近から聞こえてくるようだった。
『はじめまして、モリミヤさん』
その声は水口にもブランチしていたようだった。驚いたように後ろを振り向く。森宮に動じた様子は無かった。
「こんばんわ。――メイさん、とお呼びしておいた方が宜しいのでしょうね」
『二人を混乱させる必要はありませんから』
森宮は榊に向き直った。
「こんばんわ。榊さん。ご高名はかねがね。先日、お仕事のご依頼をお願いしたことがあったのですが、生憎お忙しいとのことで‥‥」
榊は思い出した。
「代わりに水口を送った、あの件ですね」
森宮は軽く、ゆっくりと頭を下げた。
『申し訳ありません。モリミヤさん。病院に強制捜査の手が入りました。ゆっくりしている余裕がありません。指輪を』
「これを」
森宮はジャケットの胸ポケットから銀色の環を摘み上げた。
「それは、こないだの‥‥」
『サカキ、その指輪を受け取って』
「なんだって?」
森宮は指輪を水口に渡した。そして水口が榊に手渡す。
「結局、あなた方に託すことになりましたね」
森宮がそっと言った。
「この指輪は、何なのです」
水口が森宮に訊いている。榊は指輪を掲げて照明に透かした。何の変哲もない、単なる指輪。いや、内側に何か刻まれている。
『じっくり見るのは後にして。サカキ』
「榊さん、こちらへ」
榊は先ほどのメイの言葉に違和感を感じていたが、それがなんであるのか解らなかった。カサハラに促されて歩き出す。水口がその後に続こうとしたが、森宮に止められた。
『彼女にはサカキと別行動を取ってもらうわ』
「人質か」
『あなたには病院へ行ってもらいたいのよ。あそこにはNTNの武装隊員がいるわ。そんな場所に彼女を同行するつもりなんですか』
「それも仕事の一部だ。経験を積ませないとね」
『本当にそう思っているの、サカキ。‥‥彼女とモリミヤのグループにはバックアップにまわってもらいます』
「何をさせるつもりなんだ」
『決まっているわ。仕事よ』