窓の外には光の流れが横たわる。イセザキスーパーモールを飾るイルミネーションの流れだった。その向こうには本牧の小高い丘が薄暗い塊となって視界を遮る。住宅街の規則正しく並ぶ街灯しか見えない。丘を覆う白いセラミックの建物。右手、西側斜面は林に覆われている。そこは総合病院の敷地のはずだった。
榊は手にしたワイングラスを白いテーブルクロスの上に戻した。口は付けなかった。
「ワインはお口に合いませんでしたか」
テーブルの向こうでカサハラが微笑んだ。二人がいるのはLLGW社社屋最上階にある社員食堂だった。すでに一般の勤務時間が終わっているということもあり、食堂には二人の他に食事をする姿はなかった。
榊は苦笑しながらかぶりを振った。
「クライアントと一緒にいる時に、頭をぼんやりさせるつもりはありません」
特に相手が〈生え抜き〉であるならば。
「残念ですね。こういう時のためにと、大切にしていたものだったのですが」
榊は微笑を貼り付けたまま相手の顔を見つめた。強化した肝臓を埋め込んでいるくせに良く言う。酩酊作用を嫌っているのは同じだ。
「仕事でなければいくらでもお付き合い致しますよ」
榊はフォークを肉に突き刺した。ナイフで切り込む。肉は表面だけ綺麗に焼けていて、肉汁にうっすらと血がにじんでいた。スジを切断し、肉片に解体していく。滑らかな銀のナイフが脂と血で汚れていった。
カサハラは榊の手元を見ながら、自分の肉を処理していった。
「しかし、こういう機会でなければ会うことも無かったでしょう」カサハラは肉を口の中へと運んだ。「なにしろ保安部が良くやってくれているもので」
冗談のつもりなのだろう、と榊は思った。
「確かにそちらの保安部は手強いですね」
「彼らはある種のパラノイアですからね。時として過剰に行動することもある」
「SP/GPとは違うのですよね」
「無論、違います。警察機構に出ている人間は、全員が派遣扱いでしてね。派遣元との指揮系統は切れています。――そうでなければ機能しない。建前ではね」
「本音を言えば、そうでないこともある、と」
カサハラはうっすらと微笑んだ。秘密でも何でもないんだな、と榊はその表情を解釈した。
「企業の行動原理は自己利益の確保です。警察機構への協力もその一部に入りますね」
曖昧な答えだった。もっとも、榊にしても本音を引き出せるとは思っていないし、この場では必要もなかった。
肉を解体するカサハラの手が止まった。
「榊さん。あなたのパートナーがYSP/IPに身柄を確保されました」
「何の話です」
「〈メイ〉が接触を求めています。彼女が話してくれるでしょう」
何でも無いことのようにカサハラは言った。そして肉片を口に運ぶと、赤いアルコール溶液で喉を潤した。
『水口さんは本牧埠頭にあるYSP警察機構の基地にいます』
「ドジを踏んだのか」
カサハラが微笑む。
『彼女は総合福祉病院のセキュリティを破りました。YSP/IPは病院へのアクセスがある時間帯に強襲し、実行犯を確保したわけです』
「なぜ教える。俺には何もしてやれない」
『会ってあげることはできるわ』
「なんだって?」
榊は〈生え抜き〉の冗談を初めて耳にしたと思った。
「私がここに来るのに使ったヘリが待機しています。あれを使います」
「‥‥確かに暇は無いようだな。何を急いでいる。何を企んでいる」
『わたし達を信用して欲しい。その証。‥‥それに、正直なところ彼女の持つ情報が欲しい』
榊には何を指しているのか解った。
「クライアントについて漏らすことはないと思うが」
『Y・BayS社はYSPと借地契約を結んでいる。その契約にはオーバーライド条項というものがあるわ。YSPの保安が優先される。それに、彼女はYSP住人のプライバシー情報をハッキングできるポジションにいた。それが何を意味するのかは解りますね。YSP/IPはいわゆる〈司法取引〉を持ち掛けるでしょう。Y・BaySからはYSPが保護することになるわけね。彼女にとっては良い話だわ』
「‥‥なるほど」
何が「証」だ。榊は苦笑せざるをえなかった。何もかも計算しつくしている。
『あなたが行けば、彼女もわたし達を信用してくれるでしょう』
「急ぎましょう。榊さん」
カサハラが静かに席を立った。榊もフォークに突き刺したままの肉片を口にほうり込むと慌ただしく立ち上がる。
「メイ、いい加減教えてくれ」榊は歩きながら言った。「何が望みなんだ。俺に何をさせたい」
『YSP/IPを出る時教えるわ。それまで待っていて欲しい。このラインでは‥‥』
それきりメイは沈黙した。カサハラも黙ったままエレベーターホールへ歩いていた。
盗聴を恐れているということは榊にも理解できた。プライマリキーのデータを欲しがるのは電話ハッカーか回線詐欺ぐらいなものだ。NTNの保安部は事が通信保安に関するのであれば、YSPであっても噛み付くだろう。
しかし、NTNが混乱すれば困るのは当のYSPのはず。いや、MSPやHSPといった各特別行政区も混乱する。得るものは何だ。害こそあれ、益は無いはず。
そこまで考えたところで榊は別の可能性に思い当たった。
――NTNの盗聴を恐れているのではないのかもしれない。
その思い付きに、榊は多少動揺した。
――YSP/IPを恐れているのかもしれない。あるいは、会社そのものを。
「狙いはNTNじゃないんだな」
カサハラの歩みが止まり、振り向いた。その表情は相変わらず静かな微笑をたたえているだけで、腹の底を探ることはできない。
「時間はそれほどなさそうです。急ぎましょう」
「何に警戒している」
突然メイが囁いた。
『サカキ、お願い』
「くそっ」