ストリーム・スニーカー
14. Stationary Front

 薄暮の時間は終わった。
 最後の残照が高みから消え、空は暗い灰色に色を落としていた。星はまだ見えない。西の空には南北に伸びる黒い稜線がかろうじて見分けられた。しかしそれも、じきに消える。
 東京湾の縁は明るく輝きはじめていた。YSP、京浜産業帯、幕張、木更津工業帯の明かりが暗い海を縁取る。
 対岸の明かりはYSPからでも見えていた。もし見る人がいればそれに気がついただろう。
 しかし対岸を見る者はなく、対岸の明かりに気が付いた者はなかった。誰もが街の明かりに注意を奪われ、頭上を行く明かりに気が付く者もなかった。

 YSP/IPの特殊捜査員を載せたヘリ2機はY・BayS社の家宅捜索を終え、かつての本牧埠頭内にある基地へと帰投する途中だった。ビルが林立する迷路のような街を抜ける。赤い航行灯が明滅する。
 地上では誰もその光に気が付かなかった。

 根岸湾上空で黒塗りのヘリがホバリングしていた。光学的な識別記号は何もマーキングされていない。航行灯も点けていなかった。鋭角的な機体上部に、熱トラップ管がのたうつ腸のように張り付き、水素ガスタービンエンジンの排気蒸気を液化していた。
 座席はタンデム。パイロットは後部座席に収まり、前席には視聴覚インターフェースインプラントを持つ情報戦オペレーターが座る。
 オペレーターにはYSPの色鮮やかな夜景は見えない。ナトリウムランプのオレンジ色の光、水銀灯の硬い白い光、蛍光燈の緑がかった光。湾岸を走る車のテールランプ。ヘッドライト。信号灯。ネオン。
 彼女の視覚には全てが灰色に見えている。ビルは昼間の熱を残して明るく、照明の発熱が街路を飾る。車のエンジン、排気ガス。通りを歩く人々は顔が明るく輝いていた。
 オペレーターは視線を根岸から本牧へと移した。ヘリのノーズに取り付けられた複合センサが彼女の頭と眼球の動きに追随する。本牧上空に細くたなびく雲が伸びる。その先端には輝点。オペレーターがその輝点を「見つめる」と、センサは光学的にズームした。視覚から奥行きが失われる。その輝点はヘリの排気孔だった。
 後部座席でパイロットが根岸湾出口付近に停泊している漁船とレーザー回線でバースト通信を行った。パイロットはオペレーターに移動することを伝える。移動先はYSP警察機構の基地を監視できるポジションであり、当然、警戒も厳しい。
 オペレーターはレーダー波センサの動作を確認する。

 山谷の総合福祉病院周辺はYSPエリア内でありながら、市街のきらびやかさとは切り離された領域だった。敷地は塚越の高級住宅地に接し、周囲を植樹帯で取り囲まれている。道は塚越の住宅地で終わっており、バイパス代わりに通過する車もなかった。
 NTN保守サービスと書かれたバンが山谷へ入る坂道の入口で停まった。続いて濃紺の乗用車がバンの頭を抑えるように路肩に寄せて停まった。
 そして2台をわき目に、4台の乗用車が連なって坂道を登っていく。
 いずれの車も最低限の車両運行サービスしか使用していなかった。しかし車両間ではミリ波帯を用いたデータ交換が行われており、先頭車両の動きを後続車両は正確に追随していた。車間距離は1メートルもない。
 車の列は病院前を通過し、塚越の住宅地に入った。入ってすぐの交差点で4台は隊列を解き、それぞれ住宅地入口の通りから病院への道を見張れる位置で路肩に寄せた。

 夜が訪れ、幕張特別行政区(MSP)は光の街に変わる。街の灯が大気中のエアゾルを照らし、ぼんやりとしたハーローを作り出すのはヨコハマと変らない。しかしYSPが本牧の丘を持つおかげで、その灯かりが空へと伸び上がるように見えるのに対し、平坦な埋め立て地を開発したMSPは見栄えの点でYSPに及ばなかった。
 しかし廃虚の東京から流出した若い多くの企業群を受け止める余地を多く残していたのは幕張の埋め立て地であり、現在、その経済活動の規模において未だYSPに対しては大きなアドバンテージを保っていた。また、YSPが職住近接型の、サテライトオフィス的な都市開発を進めたのに対し、MSPでは古くからビジネス拠点としての開発が先行し、その周辺に住居圏が計画らしい計画もないまま〈スプロール〉している。
 NTN保安部の施設も、その前身である施設保守部の時代からMSPにあった。現在保安部は施設保守部から独立し、文字どおり保安業務のみを担当している。保安部はNTNの信用と、NTN自身を守る。その相手が物理的なものであれ、社会的なものであれ。
 NTN保安部の敷地から、大型の人員輸送ヘリ2機が離陸した。まっすぐ海上へ向かい、そして南へノーズを向けた。その先には東京湾島が、そしてそのさらに先には木更津がある。そして、また、東京湾を行き来する大型船舶の姿も。

 横浜、幕張、木更津の灯が、暗い東京湾の淵を飾る。それは無限と有限の境界で揺れ動き、黒い穴の周囲を縁取るフラクタル集合の色にも似ていた。
 街の灯が輝くのと対照的に、その灯が届かない領域は夜の中に沈んでいった。夜は自ら輝かないものを呑み込んでいく。闇に沈んだものを見つけ出すのは難しい。その夜も様々なものが夜に溶けていった。
 そしてその中には、自ら溶けていったものも少なからずあった。

'Stream Sneaker'
Satoshi Saitou
Create : 1998.08.02
Publish: 2010.07.08
Edition: 2
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