ストリーム・スニーカー
06. Internal Voice

 わたしは明るく居心地のよい部屋でフリーランス・リサーチャーの仕事振りを見ている。リサーチャーは榊明という名を持っていた。フリーランスデータベース社の登録ナンバは23A879433。トップクラスに属し、契約金のベースも高い。過去、NTNとの間で不透明な契約が数度結ばれている。クレジットレベルは良好。
「これから各フォーラム・サロン形態のネットワークに対し、サンプリング・プローブを送り込みます」
 榊明がわたしに説明している。その表情はよく抑制された仕事向きの顔だが、わたしの基準に照らし合わせて見て完全なものとは言いがたかった。
 榊明はパッドを操作し、データサンプラープログラムをネットワークに解き放つ。その幾つかをわたしは捉え、味わう。それは市販されているものと良く似ていた。カスタマイズされているようだが、いかがわしい臭いはしなかった。もっとも表の仕事でイリーガルなソフトウェアを使用することはできないだろうが。
 わたしはテーブルの上からコップを持ち上げた。テーブルは大理石模様だった。コップの水を一口含む。会議室にはまだ予定の半分ほどしか人間が集まっていなかった。テレコミュニケーション技術を利用した仮想会議室もあるが、電子コミュニケーション技術が発達しているからこそ、重要な会議を通信ライン経由で行うのは危険だった。もっとも人間が物理的に集合することは別種のリスクを増大させることになるが、そちらの対抗策は従来の警備技術で対応可能だった。テロとアンチ・テロ技術はその言葉が発明される以前から人間の歴史の一部だった。
 榊が説明を続けていた。
「‥‥このサンプリング・プローブによって採取されたデータは、音声、テキスト、静止・動画像が混在しています。このまま解析に使うことには大変に困難なので、このデータに対して2次加工を行う必要があります。一種のフィルタリングです」
 コップの水は冷たかった。わたしの上司が他社のセキュリテイ担当と言葉を交わしている。わたしは完全な無関心を装いつつ、交わされる言葉全てをサンプリングしている。相手は緑陽食品科学の杉山セキュリティ統括部長だった。
「‥‥山谷の件を黙認するわけにはいきませんな」その口調には微かなうわずりがあった。余裕を持った調子。「あのラインはYSPのライフラインでもある。あれに対する過剰な介入には、何らかの頑とした意思表示をする必要があるのではないかと。そう思うのですがね」
「多少のことなら目をつぶってやってもよいのですがね‥‥」
 わたしの上司が答える。まだ会議は開かれていないが、実はすでに始まっている。会議前のネゴシエーションにより会議のトレンドを把握する。
 テーブルの向こうに目をやると、わたしが入ってくるところだった。会議出席者全てがいわゆる〈生え抜き〉を従えているわけではなかった。まだ〈生え抜き〉が派遣・入社しているところは少ない。わたしより先に入室しているのは一人だけだった。テーブルの向こうで緑陽総合商社のデータ保安センタ長の隣に座り、コップの水を口に含んでいる。保安センタ長は緑陽食品科学のセキュリティ統括部長と言葉を交わしている。二人の表情を見る限り、会話はトラブルなく進んでいるようだ。
「紫水、蒼山はこの件を知っているのですかねえ」
 杉山部長が探りを入れてくる。わたしはテーブルを挟んでその表情を見ている。その口調は抑制が効いていたが、表情には緊張がうかがえた。この会議で何かが動く。わたしは直観した。
「YSP/IPが絡んでいるとなれば、知らない方がおかしいですよ」
「彼らも今ごろは、こういう会議をしているんでしょうね」
「おそらく」
 センタ長の目が一瞬動いて杉山部長を見た。意識してのものではない。杉山部長はしばらくセンタ長をじっと見ていた。言葉は何も交わされなかった。
「紫水というと、昔、まだ製造にいた頃のことですが、原料の供給先に紫水系が一つありまして、そこに生え抜きがいるんですが、これがずいぶんな美人でしてね。紫水というとそれを思い出しますね」
「まぁ、こういう仕事ですから、わたしも蒼山のセキュリティ部門に顔見知りがいますよ」
 それが会話の終わりだった。杉山部長はセンタ長から離れていった。
 これは良い契機になるかもしれない。わたしは思った。わたしの前では、わたしの思惑など何も知らずに、榊明が説明を続けていた。
「‥‥このようにして加工されたデータは、コンテキストを完全に失ってまともには読めない代物です。ただ、このデータに対してキーイメージの出現頻度などを統計的に調査することによって、データマッス全体が持つ傾向を把握することができるわけです。‥‥ここまではよろしいですか」
 わたしは微笑んだ。榊明は安堵の表情を浮かべた。わたしが微笑みを浮かべた理由を彼は誤解しているだろう。しかし、それは構わない。そのことで彼の心理が落ち着くのであれば、それに越したことはない。
 しかし、彼のパートナーが不在であるということは、不安定要因となりうるだろう。彼はプロではあるが、ただの人間であることに違いはない。わたしとは違う。
 水口裕子の行方を把握しておかねばならないかもしれない。いや、すぐにでもそうすべきだろう。
 わたしは思った。
 会議はまだ始まらなかった。

'Stream Sneaker'
Satoshi Saitou
Create : 1998.08.02
Publish: 2010.07.08
Edition: 2
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