ストリーム・スニーカー
00. Distribution

 わたしは暗い部屋の中、軋むスプリングのベッドに横たわっている。部屋は狭く、壁紙は半分ほどが腐り剥がれ落ちていた。元々白かったと思しき天井は黴で黒ずみ、わたしはその模様にフラクタルなパターンを見て取る。天井の隅には複合型の火災センサに見せかけた監視カメラが設置してあった。
 床には薄いカーペット。その色は茶色だが、色褪せた赤のようにも見える。戸口の際に沿って小さな黒い塊が素早く動く。おそらくはイエネズミ。その姿はカーペットの暗い色に隠れ、輪郭が判然としない。暗視機能があればはっきりとしただろうが、それは望むべくもない。この部屋の様子を見れるだけで精一杯だ。
 部屋の扉の周囲から光が漏れている。
 わたしは隣の部屋での話し声を聞いている。話者は3人。一人は女性。日本語訛りのドイツ語を使っている。残る二人は日本人ではない。一人は女性。ドイツ語の中に時折英語が混ざり込む。残る一人は男性。オランダ訛りのドイツ語を使っている。
 日本人はアリアドネと名乗っていた。彼女の仲間は他にもいたが、今、隣室にはいない。買い物に出かけたか、見張りとして部屋を出たか。二人の統欧人は名乗っていない。
 表でサイレンの音が近づき遠のいていった。
「それで、いつメイを引き取るの」
 アリアドネが話していた。大きさは平常だったが、感情の高ぶりを抑えているのか、声は緊張していた。
「もう2週間」
 アリアドネはうまく自分の思いを伝えられないでいるようだった。先ほどから使う語彙が限られている。不自由な言語の使用が彼女の緊張をさらに高めているのだろう。
 わたしは寝返りを打った。手がベッドの縁を越え、たるんで下がるシーツのひだを指がなぞるのを見る。わたしは麻のシーツの感触を指先に感じている。
「明後日だ」男が答えているのが聞こえた。「何度も繰り返すようだが、彼女を保護する部屋のクリーニングチェックに手間取っていたんだ」
「こちらでもケイレツのユニットが活動していることを思い出してちょうだい」
 女が言い添える。
「知ってる」アリアドネは怪しい発音で鋭く言い捨てる。「だからあの子を渡すのよ。早く」
 わたしは目を閉じた。まだしばらくこの部屋を見続けなければならない。ここが嫌いではないが、飽きていた。わたしは再び寝返りを打ち、手が宙に弧を描くのを見た。
 目を開くと天井のフラクタルな黒染みが見えた。
「あと少しだけ辛抱してほしい。ナイメーヘンでは万全の体制を用意しておきたいのだ」
「ここは万全じゃない」
 アリアドネは続けようとしたが、急に黙り込んだ。衣擦れの音が慌ただしく続く。何か重たいものがぶつかる音。金属が擦れる音。遊底を引く音。
 わたしは目を閉じた。何が起こるのかが解った。
 扉の周囲から漏れる光が消えた。
 一呼吸置いて、小さな破裂音が続いた。ドアが蹴破られる音。小さなモーターのような音が幾つか続く。何か重たいものが床に転がる。
 そして、わたしのいる部屋の扉が開かれた。腰を落として二人が飛び込み、その後ろに三つの銃身がそれぞれ異なる射界を抑えて、二人の前衛をカバーしていることが解った。飛び込んだ二人はそれぞれ左回り、右回りに部屋を確認する。そして、ベッドの上のわたししかいないことを確認すると、一人がわたしの頭を狙ってサブマシンガンを構えた。ディテールは判然としないが、シルエットからはH&Kのように見える。少なくとも日本製の銃をここでは使わないはずだ。
 わたしは目を開き、銃口を覗き込む形になった。わたしに銃をつきつける者はわずかにたじろいだようだった。銃身が振れる。
「あなたはあなたの仕事をしなさい」
 わたしはつぶやいた。
 銃口が光った。音を聞くことはできなかった。聞いていたのかもしれないが、それを意識することはできなかった。わたしはマズルフラッシュを見ただけだった。一発しか撃たなかった。もっともそれだけで十分だった。
 部屋に押し入った彼らは速やかに立ち去った。カーペットの足跡以外、遺留物は無かった。
 わたしはベッドに横たわっていたが、額には小さな穴があき、ベッドにはどす黒い染みが広がっている。子細を確認するまでもなく、わたしの身体は死体に変わっていた。隣室の三人も死体に変わっているだろう。隣室にも同様にモニタカメラがあれば確認することができただろうが、生憎とそこまで準備されていはいなかった。突入したユニットは当然何らかの形でカメラを仕込んでいるだろうが、それを利用することは不可能だった。このカメラまでのアクセスパスを確立するだけでもずいぶんな時間を必要としたのだ。
 わたしはこのカメラへのアクセスパスを放棄することにした。それと同時に統欧/フリー・ストリームへのゲートウェイから引き上げた状態になっているだろうが、それを意識することはできなかった。意識する必要もなかった。

'Stream Sneaker'
Satoshi Saitou
Create : 1998.08.02
Publish: 2010.07.08
Edition: 2
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