榊はコンクリートの臭いを感じながら、鈍い銀色の丸い殻の前にしゃがんでいた。殻の床が接する間際の場所に小さな紙片が貼り付けてあった。手書きのインクは長い歳月を重ねたためか劣化が激しく、かすれた文字を読み取るのに苦労した。
「サトル‥‥か。で、どうすれば」
『蓋を開けて。手動でロックを外せばいい』
榊は殻の横にダイアルを見つけた。長い間冷房にさらされ、冷えきっている。静かにダイアルを回すと機械式のロックが外れる振動が手に伝わった。油圧シリンダーが伸長し、卵の殻に似たチタン製の蓋が開いていく。
中には子供が収まっていた。目は閉じられ、肌が青白い。口、鼻腔、腕にチューブが取り付けられていた。微かなモーター音。
「生きているのか?」
榊は呟いた。子供には生気が感じられなかった。
『半分生きているわ』
「どういう意味だ」
『ベッドの中にキーボードがあるはず。それを使って指輪の文言を入力してあげて』
子供の右手脇、ビニール製の詰め物とチタン殻の間に隙間があり、その中にキーボードが収納されていた。
「こんなキーボードは久しぶりだな」
『その殻が設計されたのは15年近く前よ』
「15年? しかし、この子は‥‥」
『早くキーワードを』
メイにせかされるまま、榊はキーボードに向かった。
森宮が再びエンジンをかけた。水口がはっとなり、彼女の横顔を見つめた。「榊さんがあそこにいるのを見つかるのは具合が悪いんです」森宮は答えた。
「わたし達で回収しなければならないんですよ」
「――でも、POがバリケードを」
「心配無用です」森宮は微笑んだ。「もう、大丈夫です」
なぜそれほど自信ありげに話せるのか、水口には不思議だった。水口の疑念に構わず、森宮は続けた。
「水口さん。パッドの用意をお願いできますか」
森宮は微笑んだ。メイの声が響く。
『本牧POBに侵入して撹乱します。必要なチャンネルはこちらで用意できます。――できますね?』
本牧POBと聞いて緊張しないわけにはいかなかった。
「できるも何も‥‥やる他ないんですよね」
森宮の笑みは崩れなかった。
丘の上でぱっ、ぱっと明るい光が瞬いた。わずかに遅れて轟音が鳴り響く。
YSP/GPは厚木基地に巡航ミサイルの発射を要請していた。ミサイルはポップアップした後、瀬谷上空を通過する頃に高度を下げ、市街地のスカイラインすれすれを亜音速で飛翔した。ミサイルは北西側から病院に敷かれたNTNの対空陣地に侵入する。終端ではYSP/GPの偵察ヘリがレーザーで目標をポイントして誘導していた。ピンポイント爆撃だった。無人の地対空陣地は破壊されたが、病院施設への損傷は殆ど無かった。NTNのヘリはすでに墜とされている。
そして、防空力が消えたと同時にYSP/GPの地上部隊を満載した輸送ヘリが病院上空でホバリングする。ワイアが数本降ろされ、突入隊員が降下装置を使って屋上と敷地に着地した。敷地には6部隊が降下したが、うち1部隊が中央病棟と東病棟を結ぶ連絡通路へ向かった。退路を断つのが目的だった。
YSP/GPの退路を断つ試みはセオリー通りではあったが、戦略的に意味はなかった。NTNの突入部隊は独自の通信ラインで社とつながっていた。彼らの行動は全て記録されており、その記録が彼らの求めるものだった。彼らはNTNが伸ばしたセンサだった。
従って彼らは東病棟に人員を残していなかった。全人員と全火力を動員して中央病棟奥のエレベーターホールへ向かっていた。彼らはYSP/GPが病棟屋上と連絡通路、病棟一階の全開口部から突入してくることを予想していた。
彼らが問題の場所に到達するのが早いか、YSP/GPに潰されるのが早いか、それが全てだった。橿原は車椅子を走らせ、部下達に守られながらエレベーターホールへと向かっていた。
榊はキーワードを入力し終え、ベッドの中の子供をじっと見つめていた。
「メイ‥‥俺に何をやらせたんだ」
子供の顔から血の気が引いていく。
『彼の身体は死ぬわ。ようやくね』
「俺に人殺しをさせたのか」
『彼はある意味ですでに死んでいたし、ある意味で今も生きている。彼は植物状態だったのよ、サカキ』
『彼らがNIFASの問題をクリアした』カサハラだった。『フロントエンドとバックエンドを二極化すると共に有機的な連携を残す。系列はその目的のために視聴覚インターフェースを使った』
榊はふらりと身を起こし、部屋を振り返った。チタンの殻が12個並ぶ。
「すると、この中は全て‥‥」
『彼らは初期実験体と呼ばれていたわ。植物状態にあった子供を集め、彼らの脳に生神経-電子インターフェースを埋め込む。企業の情報系と直結させる試験が目的だった。実験はある程度の成功を収め、やがて、彼らは生後間も無い時期に埋め込みを行うようになった。インターフェースに対する適性が遺伝することが解ったため、セミクローニングが行われた』
「それが〈生え抜き〉か」
『いいえ、でも、〈ハウス〉という設備を持っていたことは有利だった』
『生神経-電子インターフェースを持ったため、我々はダイレクトに情報を交換できるようになり、最終的に思考を共有するまでに至った』
「便利そうだな」
榊にはそう呟くのが精一杯だった。
『あなたの思っているほど便利なことではないわ。思考を共有した結果、ネットワークにつながっている間、何が自分の思考なのか見分けることができなくなった。さらに視覚・聴覚を共有するに至って、自分と他人の区別すら困難だった。――いえ、区別することに意味が無くなってしまった』
『だからこそ、それは〈オミュニビーク〉と呼ばれた』
『オミュニビークは外部の人間には一個のAIとして見える。でも、一個ではない。ステレオ効果による音場と同じ』
「生え抜きの集合体なのか」
『集合ではないのよ』
『LLGW社でのデモを覚えていますか。あのクラスタリングシステムを。個々が全体に影響を与え、そのフィードバックが個々に影響を与える。個々のモジュールが生成するシナリオが互いに影響し合うことによって、あたかも一つの物語が与えられているかのように見える。――そういうことです』
「そういうことです‥‥か」
榊は呟いた。