アンダー・ウォーター
9.

 窓から見える景色は昔ながらの下町の眺めだ。年期の入ったアパートの群れ、そろそろ改装工事が必要そうな中高層住宅群、未だに撤去されない電柱。
 しかし窓際に立てば、それらがオープンスタジオのセットみたいなものであることが解る。見下ろせばアスファルトの替わりに水がある。ぼんやりしていれば夢と見分けがつかないだろう。世界が終わってしまった夢。海に沈んだ街の夢。目覚めると忘れてしまう世界。
「あの子、何か言った?」
 土屋の声に榊は現実に引き戻された。窓の外は相変わらず。榊は椅子の上で座り直した。
「メイと名乗ったよ」
 榊は自嘲気味の笑みを浮かべる。
「他には?」
「それだけ」
 土屋もクラッドも榊を見つめたまましばらく黙っていた。榊も黙っていた。
「まぁ、名前が判っただけもたいしたもんだよ」
 土屋が呟く。皮肉を言っているわけではなさそうだった。
「何とかなりそうかい」
 榊はあいまいに頷いた。
「そう、ま、頼むわ。あたしはガキ共の飯作ったげないとなんないから、上に行っている。何もないとこだけど、ゆっくりしてって」
「そうもいかないさ」
 土屋はにっ、と微笑んだ。
「ま、いい仕事してよ。それじゃ。‥‥あ、徹、洗濯室のあれ、干しといてね。ちゃあんと。皺にならないように」
「おーけい」
 土屋は部屋を出ていった。榊はクラッドを見た。
「なんでにやけてる」
 クラッドが訊いた。榊は肩をすくめる。
「大変なんだな」
「居候だからな。実際、洗濯やら食事やら、大仕事さ。あいつはよくやってるよ。普段の面倒は年上の子が見てるので、助かってるようだけどね」
「子供が子供の面倒を見てるのか」
「意外とうまくいってるよ。‥‥それで、あの子は」
 榊に確信はなかった。
「まだ判らん。変な子だ」
「知ってるよ。そのくらい」
 クラッドは苦笑いしながら部屋を出ていった。榊は部屋に一人残された。クラッド達が出ていった側と反対側の壁を見る。ひびが走るコンクリの壁。錆びの浮いたスチールドア。そのドアの向うにメイがいる。おそらくは外を見つめて。
 ベルトに貼り付けた携帯端末の受呼フィルムが振動した。榊は上着の内ポケットにしまった小さな箱から(耳〉つまりイヤホンと〈口〉――スロートマイクを引っ張り出す。イヤホンとマイクは細い黒いワイヤで箱とつながっている。
「はい」
 小声で。
『明?わたしよ』
 水口だった。
『橿原から連絡があったわ。‥‥聞いてる?』
「聞いてる」
『再生するわね』
 榊はサンプリングされた橿原の声を聞く。
『‥‥だ、そうよ。どうするの』
「断るさ」
『だろうと思った。それじゃ、わたしが』
「いや、いい。おれから直接言う」
『‥‥ねぇ、一体何してるの?』
「女の子の話し相手」
『ふざけてるの?』
「おおまじめさ。‥‥そっちは何してる。怠けてるのか」
『とんでもない。勉強してたわよ。イセザキモールでちょっとした事件があって、YSP/GPが犯人を追跡し、管轄を割って川崎まで追いかけた、とか。役には立たないけど。橿原の依頼と似たようなものね。これは』
「おい、影を出すなよ」
『そんなに深入りするつもりはないわ。それじゃ』
「じゃ」
 妙な依頼だ、と榊は思った。重要な部分がぼかされているような印象がある。裕子に知られたくはなかったのだろう、と榊は推測した。
 榊は折り返し橿原へ連絡をいれようとし、躊躇した。故買屋から買い取ったダミー宅内交換機を数台経由させ、最後に磯子にある自宅の宅内交換機経由で幕張のNTN保安部につなぐ。神経質になっているのは榊自身も自覚していた。本能のようなものかもしれない、一瞬そんな考えが榊の脳裏をかすめる。
『橿原だが』
「榊です。どうも。ご連絡いただいたそうで」
『さすがに早いな。自宅からか』
「そのご質問には‥‥。ところで御依頼の件ですが、残念ですが今回は』
『残念そうでもないような口ぶりだな』
「とんでもない。ところで、なぜYSP/GPの調査など。そんなことしていましたか」
『教えるわけないだろう。いい勘だとは言っておくが』
「恐縮です」
『何をしてるか訊かないが、今の時期はおとなしくしてろよ。貴様にはまだ役に立って欲しいからな』
「支払いさえそれに見合えば」
『ふん。では、切るぞ』
 回線は一方的に切れた。
 榊は端末装置にワイヤを巻き取らせた。イヤホンとマイクをそれぞれ先端につけた細いワイヤが生き物のように内ポケットに吸い込まれていく。
 YSP/GPが活発に動いているのか。
 榊は橿原の言葉を思い返した。それで、違法行為に注意しろと警告したのか?
 YSP/GPに限らず、特別行政区の警察組織は各系列の保安部門から派遣された人間で構成されていた。その組織が動くのは特別行政区内にある各系列の施設や資産に危害が加わったか、加えられそうになる時のみ。もちろん資産の中には社員も含まれる。ゼロから育てられる〈温室育ち〉の保護には各社とも特に力を入れている。
 榊はスチールドアを見た。
 もしそうだとすれば、正体なんて気にする余裕は初めから無いことになる。
「‥‥判ってたことじゃないか」
 榊は呟いた。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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