「ここじゃだめなの?」
土屋が悲痛な表情で訊く。榊は首を振った。
「楽観すべきではありませんね。わたしならここにとどまったりはしません」
「しかし、どこへ行く?」
クラッドが言う。
「どこに行ったって同じなんだろう?どこに行ったって企業町やSPがある。それがなくっちゃ誰も食っていけないんだからな」
「それだって時間稼ぎにはなるんだ」
榊は冷静に指摘した。
「あの子を放り出すか、あるいは最後まで面倒を見るか、二つに一つだ。ここを捨てないのなら、その決断はすぐに迫られる。逃げれば、そう、あの子が自分の面倒を見られるようになるまで逃げられれば、その間にいつでも決断はできる。あの子を取るのか、ここを取るのか、どっちだ」
「ちょっと待ってよ。急にそんなこと言われても困るよ」
連中は待っちゃくれないんだ。
「時間は無いんですよ」
榊がそう言うと、土屋とクラッドは互いに見つめ合った。二人の困惑と苦渋が榊には手に取るようにわかった。榊にとって結論はすでに出ていた。二人にとってそれ以外の選択肢は残っていないはずだからだ。
「明日の朝では駄目なの?」
「『明日できることを今日するな』ですか」榊はにこりともしなかった。「残念ながら、明日はないかもしれないのですよ」
「そんな馬鹿なことがあるかよ」
クラッドが爆発した。
「ここにあの子がいるなんて、YSPが知ってるわけはないんだ。どうやってここに来る?来るわけがないだろう。お前、紫水に買われていたんじゃないのか?」
土屋が榊を睨む。
「筋は通るね」
榊は動じなかった。
「だとしたら、こんな話はしてないで、とっとと眠ってもらってるさ。その方が連中の仕事はしやすいからな」
二人は再びしおらしくなった。
「でも、どこに行けば‥‥」
「平塚に親戚がいるが‥‥」
横浜の向うじゃ危険すぎる。榊は思った。上野方面から北関東へ逃げるのがとりあえずは上策だろうが、そこから先は‥‥。
「宛がないわけじゃないわ」
三人はその声にぎょっと振り向いた。戸口の所にメイが立っていた。
「ごめんね。起こしちゃったね」
土屋が声をかけると、メイはうっすらと笑った。
「構わないわ。大して疲れていないから」
土屋とクラッドはメイの大人びた口調に戸惑ったようだった。メイは部屋に入ると、隅に片づけられていた椅子に座った。足を組み、膝の上で両手首を軽く重ねて置いて、前かがみになる。前髪がはらりと顔にかかると、左手で優雅に払いのけた。まるきり大人のミニチュアだった。
「宛があるとは聞いていなかったな」
榊が訊いた。
「わたし自身が行くつもりはありませんでしたから」メイが答える。「わたしとしては、南に行っても良かったのですが、ここにお世話になっていると、そんなこともできなくなってしまいました」
ずいぶん老けた言い方だ、と榊は思った。
「南?東京島」
メイはゆっくりと首を横に振った。
「海の中に行くつもりだったんだよ。彼女は」
榊が脇から言う。
「なんでそんな馬鹿なことを‥‥」
「なぜです」
「なぜって、あなたには将来があるからよ」
「将来?」
メイが反問する。
「子供には皆、将来があるのよ。死ぬには早すぎる。ご両親が喜ぶはずがないじゃない」
榊とメイの目が合った。榊には彼女が何を考えているのか解るような気がした。メイに土屋が言うような意味での両親はいない。そして‥‥。
「将来はあるかもしれません。しかし可能性はありませんでした」
メイが答える。土屋とクラッドが怪訝そうな顔をする。榊はメイに同情しかけていることに気がついた。彼女について多少理解しているのは彼だけだ。
「そんな風に決め付けてはだめよ」
土屋が言う。メイは醒めた微笑みを浮かべるだけだった。メイの言葉は土屋に届かず、土屋の言葉はメイに届かない。〈生え抜き〉と系列外部の人間との間には、絶望的なほど広い溝が横たわる。
「身の上相談は後にしてくれ」榊は口を挟んだ。「メイ、宛があるとはどういう意味だ。それはすぐにでも行ける所なのか」
「そして安全なのか、とあなたは訊きたいのでしょうね」メイはくつろいだ表情で応えた。「期待を持たせたくは無いので、まず言っておきますと、わたしはその場所を知りません。ただ、連絡先を知っているというだけです。おそらく、味方になってくれるでしょう。どれほどの力になってくれるのかということも、わたしは知りません」
「何もないよりはましということか」
「そういうことですね」
「信用できるの?」
土屋が言うが、榊とメイは無視した。
「その連絡先は」
メイは一連の番号を答えた。榊の携帯端末が即座にアクセスする。