道路は水没していた。船着き場からは狭い橋がかつての道路に沿って延びていた。浮き桟橋だった。プラスチックケースに発泡スチロールなどの浮力材を詰めて浮きにし、その上に黒ずんだ板が渡されていた。水深2メートル程でアスファルトの水底は泥とミズゴケに覆われていた。
通りに並ぶ建物はどれも廃屋の雰囲気が漂っていた。まだ姿をとどめているのが榊には不思議だった。この土地が放棄されてすでに20年以上たっていた。
榊はクラッドの後について桟橋の上を歩いた。水面の照り返しが眩しく、榊はサングラスをかけた。波が建物にあたる水音が耳についた。桟橋が足の下でたわむのを感じた。
「こんな所に住んでいるのか」
榊は前を行くクラッドの背に話しかけた。
「そうなんだ」クラッドは前を向いたまま答えた。「生きてるのは電気と電話だけ。上下水にガスはだめ。行商が水を売りに来るよ」
「話には聞いていたけどな」
「おれも最初は住めたところじゃないだろうと思っていたよ」
「実際には違う?」
「水上残留者は結構いる」
榊は廃屋に再び目をやった。殆どの建物は水に浸かって腐るにまかされていたが、中には塗装された柱で補強されたものがあった。よく注意して見れば、そうした建物の二階部分の窓に、小さな鉢植えの花が置いてあったり、タオルがていねいに広げられて干されているのがわかった。そしてマンションのような高層住宅ともなれば、上層階ではそこここに洗濯物が干してある。そこには生活がある。
「何人くらい住んでいるんだ」
「詳しいことは知らん。ここには少なくとも100世帯が残っているそうだ。あちこちに散らばっているそうだが。彼女ならよく知っているだろう」
「‥‥そういや、その彼女さんの名前は」
「土屋晶だ」
水上に住む土屋さんというわけだ。榊はその皮肉を愉しむ。
桟橋を走るらしいリズミカルな音が遠くから聞こえた。そちらの方を見ると、角から二人の子供が桟橋を走ってきた。追いかけっこをしているらしい。6才くらいだろうか。逃げているのは男の子。半ズボンに袖を引き千切ったシャツを着ている。追いかけているのは女の子。やはり半ズボンにずたずたのシャツ。ただしこちらは野球帽を被っている。
クラッドが歩きながら二人の方を向いていることに榊は気が付いた。
「あの子なのか?」
榊は訊いた。
「いや、あの子じゃない」
クラッドは前を向いたまま答える。
追いかけっこをしていた二人の子供は榊達の存在に気が付いた。最初に男の子が立ち止まり、その彼に女の子が勢い余ってぶつかる。二人は転んだ。
「大丈夫か」
クラッドが声をかける。子供たちは素早く立ち上がると榊達の方へよってきた。二人ともずぶぬれだった。少なからず水中に落ちているらしい。
「おじさん、帰ったんじゃなかったの」
「友達を迎えに行ってただけだよ」
「へえ」
子供たちが榊の方を覗き込む。榊はサングラスの奥から無愛想に見つめ返した。
「アブー」
真夏の陽射しの下、今にも破裂しそうな笑みを浮かべて女の子が言う。波の反射をうけて瞳が輝く。
「アブアブ」
「おじさん、トモダチは選べよー」
「大きなお世話だ。ガキ」
「うるさいジーサン」
「なんだと、おい、コラ、逃げるな」
子供たちはすでにしぶきを上げて向うへ行こうとしていた。クラッドは二人の背中に呼びかける。
「土屋さん、いるよな」
女の子が立ち止まり、振り返る。肩より少し長い髪が広がる。
「ねーちゃんならいるよ」
それだけ叫ぶと前に向き直り、先を行く男の子を追いかけていった。二人の姿は角に消えた。
「あの子たちは、その、土屋さんの?」
「近所の馴染みだよ。彼女は子供の面倒見がよくてね。よく預ってる」
「預ってる?託児所みたいなものか」
「そんなところだろうな。親たちは東京湾島拡張区の最終処分場や横断橋のメンテとかで働いている。あんまりいい稼ぎじゃないから共働きさ。後には子供が残る」
「学校は」
クラッドが不意に肩越しに榊を振り返り、にやりと笑う。
「そんなに気になるか?」そして前に向き直って、「あいつらは学校に通ってないよ。通信教育だ。‥‥ここにはわりと人間が流れ込んでくるんだ。ここに居場所があればそのまま居着くし、なければ流れてく。居着く人間は大抵ここで必要とされる人間だ。いろんな人がいるよ。旧公立校の教員とか、腕に覚えがあるハッカーとか。いろいろとね」
「不正規教育ってわけだ」
クラッドが振り返ってにやりと笑う。
「正規教育ってなんだい。SPに都合がいいって意味かい」
榊は答えられなかった。そのまま二人とも黙り込み、しばらく歩く。どこからか笑い声が小さく聞こえた。
「あれが彼女の家だよ」
クラッドが指差す先には3階建ての鉄筋コンクリ作りの建物があった。1階はほとんど水中に没している。昔は会社の事務所だったらしく、カナヤインフォームデバイスとかろうじて読み取れる看板が、水中で真っ赤に錆びていた。壁には幾本もの筋が走っていた。その筋は壁面のひびを充填材で埋めたものだが、不吉な赤い染みが充填材の下から広がっていた。錆が進行していた。やがて錆びて膨張した鉄筋がコンクリートを破砕するだろう。
榊は3階を見上げた。少女が、おかっぱ頭の少女が榊をじっと見下ろしていた。その静かな表情に榊は肌が粟立つのを感じる。
子供の顔じゃない。榊は思った。