アンダー・ウォーター
8.

 エス・エスを用意する。サーチ・アンド・スティールプログラム。ネットスニファー達が開発し、時代を経るにつれて洗練され、非合法色を強めていった。水口が用意したのはYSPの管理部門にも潜り込める。YSPに勤めるどこかの間抜けが漏らした暗号鍵を使っている。ひんぱんに使うとばれるので、滅多に使うことはない。
 水口はそれを使おうとしていた。
 実際に使わなくては上達しないしね。水口は自分にそう言い聞かせていた。実地体験を積まなくては腕は上がらないと、明も言っていたし。
 水口はエス・エスに情報をセットする。エス・エスはピンボーイとは違い、厳密にデータを検索する。さらに言えば、エス・エスが対象とするのはネットワーク上を流れるデータというより、ネットワークを構成するホロノード上に蓄積されたデータだった。エス・エスは幾つものオプションモジュールがあって、それらをつけかえることで異なるプロテクションに対応する。YSPP(YSP警察)の通話ログデータベース専用や、会員制クラブの個人会員間で交わされる私的メール専用というものもある。
 水口はエス・エスの仕掛けを詳しく知っているわけではなかった。彼女が知っているのは、目標に合わせたモジュールをセットすればうまく行くということだけ。
 アンダーグラウンドで生まれたとはいえ、エス・エスは最新プログラム工学の凝縮体だった。気難しいところは皆無。誰でも使える。少なくともパッドに添付の取扱説明書を読める程度の語学力があるのなら。
 水口は自分のパッドの中でくみ上げたエス・エスを実行させる。エス・エスは基本的にはワームプログラムであり、無作為に選ばれたネットワークのホロノードとなるパッドやファニチャマシン、メインフレームの間を渡り歩く。悪さは決してしない。狙ったマシンにたどりつくまでは。エス・エスは「そっと、しずかに」の略だという手垢にまみれた冗談がある。短期間に大量の情報を取り出すのが目的のピンボーイと違い、エス・エスのような非合法プログラムは発見されないのが第一だった。その為にエス・エスの動作は手堅く、地味だった。時間がかかるやり方ではあったが、賢明な手段だった。仮に発見されても、侵入路を逆探知することは難しいので、ユーザーのリスクは小さかった。
 水口はエス・エスの動作開始を確認すると立ち上がった。軽く食事をするつもりだった。エス・エスが結果を持ち帰るまで数時間かかるはずだった。

 水口は清涼飲料をマグカップに注ぎ、そのカップを持ってテラスに出た。強い陽射しが頭を焦がすようだ。榊と水口の共同名義で借りているこのフラットは旧磯子区の磯子台の斜面を覆い尽くしている共同住宅の中にあった。部屋は東向きで、根岸湾を一望にできた。すぐ手前には東海トラフィックの線路が横たわり、その鉄路に沿って植えられた背の高い火炎樹の向うには液体水素貯蔵タンクが幾つも並んでいた。上面を臨海公園として利用されている5メートル堤防帯が海岸線を縁取り、その向こうでは太陽光による水素生成プラントが港の殆どを占めて浮かんでいた。このプラントの生産効率は天候に左右されるので、電力による生産プラントも堤防帯の内側に建てられている。
 水口はそれら無骨な景色のさらに向うに目をやった。重工業が東京湾から去り、東京湾横断道路が2個所で開通した今でも、東京湾内の船の往来は多かった。浦賀水道を出入りする大型穀物輸送船やコンテナ船、フェリー、それら大型船以外にもTGP(東京湾洋上警察)の高速船や岸に沿って航行する観光兼用の水上バス、カーボンファイバー製のポールに三角帆を張り存在を主張している釣り舟の群れ。釣り舟はこの距離だとどれも群青の海に散らばる染みのようにしか見えない。
 水口はカップの中身を一口飲んだ。味はコーヒーにそっくりだが、後味はまったくの別物だった。口の中がひんやりとし、まとわりつく感じがまるでない。水口の最近のお気に入りだった。
 普通警察のパトカーが短くサイレンを鳴らす音が水口の耳に届いた。その音は車の走行音や風音のノイズに埋もれて奇妙に優しく、柔らかく響いた。
 ここはTYISPでもYSP/GPの管轄でもない。昔からの旧国家警察の管轄。もっとも大口スポンサーは納税者ではなく、系列企業なのだが。
 水口は共同住宅の壁面に沿って目をやった。白いコンクリートがぎらぎらとまぶしい。布団や洗濯物が干されたテラスや、減光フィルムと骨組みを組み合わせてでサンルームのようになったテラス、観葉植物が生い茂りミニジャングルになっているテラスがあった。在宅勤務かオフィス替わりなのか、マイクロ回線用のバーチカルアンテナが林立しているテラスもあった。
 コーヒーもどきをもう一口飲んだ時、水口はめまいを感じた。陽射しにのぼせたのだった。クーラーが効いた屋内に戻ってから頭に手をやると、髪の毛が熱を持っているのが解った。
 しかたなく水口はパッドの前に戻った。
 エス・エスはまだ結果を持ち帰っていなかった。

 電話のベルが鳴った。パッドでも、装着端末でもなく、部屋に備え付けの電話が鳴った。水口は装着端末のヘッドセットをつけると、部屋の電話回線を横取りした。
「もしもし、水口ですが」
『こんにちわ。水口さん。橿原だ。NTNの。――絵が出ないのはなぜだ』
「装着端末で受けてますから」
 水口の口調は自然と険しくなっている。
「‥‥ところで、榊は留守にしております。お言付けがあれば承りますが」
『連絡はとれるのか』
「もちろん。もっとも、仕事の御依頼でしたら当分は無理でしょう。今はクライアントの下で仕事していますから」
 残念でした。水口はこっそりと舌を出す。
『キャンセルはできないか』
「それは榊に伺って下さい。私からは何とも。ただ、キャンセルはまずしないでしょう」
『だろうな。やむを得まい‥‥』
 橿原は電話回線の向うで独り言のように喋った。水口の中で何かが弾けた。計算もしない言葉が滑らかに連なる。
「もっとも、榊の仕事はすぐにも終わるかもしれません。御依頼の簡単な内容をお話して下されば、それをそのまま榊に転送致しますが。どうでしょうか。場合によっては榊がすぐにもそちらにご連絡を入れるかもしれません」
『ふむ。なるほどな。依頼したかった内容は簡単だ。過去数週間のYSP/GPの動向を解析だ。定期的なリサーチだよ。NTNの警備行動に反映させるつもりだった。YSP/GPのデータベースが関るので榊に頼みたかったのだがね。そういうことだ』
「‥‥伝えます」
『宜しく。水口さん。それでは。失礼』
 回線は切れた。
 YSP/GPのデータバンク絡み。また例によっての汚れ仕事。水口の胸中は沸点すれすれだった。ヘッドセットを外しながら、リラックスしようと自分に言い聞かせる。
 いつまで自分達はNTNにいいように使われなければないのだろう。いつになったら橿原の電話を、ろくに内容を聞きもしないで切ることができるのだろう。
 水口はふうっ、と息を吐いた。ヘッドセットをたたんでパッドの脇に置く。
 やめよう、こんなこと考えるのは。考えれば考えるほど頭にくるだけだ。
 榊の顔が思い浮かぶ。明はとっくにそうしているのだろう。水口はふと思った。考えないことでうまく適応しているんだ。
 パッドからチャイムの音が流れた。エス・エスが結果を返した合図だった。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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