羽田空港の東側拡張区域は長い砂浜に変貌しようとしていた。震災で東側の土台部分が流失し、広いアスファルトの平原が傾いでしまったためだ。基礎杭がしっかりと打ち込まれていた地上施設は傾かずに済んだが、その後の海水浸入と潮位上昇により、今は沖合いで漁礁となっている。西側の古い区画は無事だったが、東京湾島空港の開設と同時に放棄された。再開発の計画はまだない。
水口はかつての東旅客ターミナルビル付近でフェンスの裂け目から車を海岸に乗り入れた。地面は波打って傾き、海中へと消えている。水口は車を北の端まで走らせた。2キロある。ハイビームで照らされた地面には様々なゴミが落ちていた。いずれ資源回収されるのだろうが、今はゴミだ。高潮で打ち上げられたのだろう、横倒しになったトレジャーボートが光の中に浮かんだ時は、さすがに水口もぎょっとした。
突然地面が途切れた。水口はサイドブレーキを引きながらハンドルを切った。騅は砂利を跳ね飛ばしながら横滑りし、停まった。
水口はグローブボックスに手を伸ばし、小型双眼鏡を取り出す。デジタルクロックの数字はすでに日が改まっていることを示していた。
ライトを消す。しかしエンジンは止めない。
水口は携帯端末の電波受信域にいることを確認すると外へ出た。ゼリーのような熱い空気に包まれ、思わずうめく。
水口は砂と砂利を踏みながら波打ち際まで歩いた。砂利が多く、ローヒールの街中向きの靴では歩きにくかった。使用済みの男性避妊具を踏んでしまい、不快げに顔をしかめる。
北側の岸壁には腰の高さほどの草がびっしりと生い茂っていた。水口はその手前で立ち止まり、双眼鏡を目にあてた。右手には東京湾島の灯かり、正面には城南島の放棄された施設がぼんやりと見えていた。そこから少し右に視点を移すと、小さく、かすかに明滅する赤い光が見えた。
水口はその光に注目した。それは航行灯だった。東へゆっくりと移動している。その航行灯はやがて城南島の建物に遮られて見えなくなった。
水口は小さく毒づきながら視点を西の方へずらした。今度は3機が編隊を組んで、やはり東の方へと移動していた。
あの先に榊はいるのだろうか。
水口は思った。回線経由で居場所を問い正したい衝動に駆られる。しかし、橿原が、NTN保安部が耳を澄ましているのは確実なのだ。危険は冒せない。それは解っていた。しかし水口は榊の居所をたまらなく知りたかった。知って、車を回して、さっさと回収したかった。回収して、こんな気分にはけりをつけたかった。
風が吹いた。後ろから吹き抜けていく重い風。
はっとして水口は振り返った。その途端、まばゆい光が頭上から彼女を照らし出す。風が強まり、叩きつけるよう。水口は手をかざして光を遮った。
「そこで何をしている」
ラウンドスピーカーの声。
ヘリだ、と水口は思った。しかしローター音がない。再びスピーカーの声。
「YSP/GPだ。携帯端末があるならSPPHY334にアクセスしろ。なければそこで首を振るんだ」
ああ、くそっ。
水口は言われた通りアクセスする。
「怪しいものじゃないわよ」
『こんな所で何をしてる』
「夜景を見に来てたのよ」
携帯端末が割り込む。
『あなたのクレジットプロフィールが参照されました』
『ここは物騒な所だ。見かけよりはね。レイプされて海に棄てられたくなかったら、早くここから立ち去ることだ。水口さん』
「そうしたほうが良さそうね。そうするわ」
『本当にそうしたほうがいいと思うね』
「ご親切にどうも」
『どういたしまして』
唐突に光が消えた。暗がりの中のわずかな光を浴びて、YSP/GPのヘリが浮かんでいた。ヘリの爆音が突然周囲に響き渡り、その他の音全てを叩き潰した。ヘリは姿勢を前に傾けると、そのまま水口の頭上を越えて北へ向かって飛び去った。ヘリの腹に書かれたマーキングを読むことができた。
北へ。
水口はしばらくヘリを見送っていた。ぶるっと身震いする。先ほど警告されたことが急に現実味を帯びて感じられたからだ。彼女は振り返ると車の方へ歩き出した。車の中のエアコンが効いた空間に閉じこもっている方がマシだ。靴音が響く。
携帯端末が鳴った。
「水口です」
『おれだ。起こしたか?にしちゃずいぶん早く受けたな』
「心配で眠れないのよ」
『本当か』
「嘘よ。心配しているのは確かだけどね」
『‥‥ひと働きしてくれと言ったら怒るかい』
「今更怒ったりはしないわ。あきれるだけ。‥‥正直言うと、待っていたのよ。
回収して欲しいんでしょう」
『勘を効かせたな。そんなところだ。会合地点は‥‥』
「ちょっと待って。この線は清潔なの?」
『用心深くもなったな。そっちのラインが盗聴されているかもしれないって? フラットにはいないんだな』
「車で出てるのよ」
『今車内か?』
「蒸し風呂の中を歩いているわ」
『車に戻れ』
「そうしてるところ」
『この線は切る。じゃ』
「ばい」
回線が切れた。水口は車へと走り急ぐ。車内に飛び込み、扉を閉める。外と比べると中は凍えるようだった。汗が冷えて気持ち悪い。双眼鏡をナビ席に放り出す。
グローブボックスの中で電話が鳴った。水口は反射的にグローブボックスに手を伸ばして開いている。馴れた手つきで中を引っ掻き回し、手の感触だけで鳴っている電話を取り出す。
「はい?」
『榊だ。会合地点は言問橋の袂。西側だ』
「言問橋の袂。西側」
『OK。おれは遅れるかもしれん。あるいは来ないかも。しばらく待っててくれ』
「朝まで待つわ。大丈夫、必ず来るんでしょう」
『努力するよ。じゃ』
「ばい」
回線は切れた。水口は電話をグローブボックスに戻すと、ハンドルを切ってアクセルを踏み込んだ。