アンダー・ウォーター
24.

 雨が降り始めた。雨粒がアーケードを叩く。歴史のある商店街だった。先の震災で一度は焼けたがたちまちのうちに復興した。政治や経済の拠点が東京から周囲へと散逸しても、ここへ通じる交通機関がほぼ壊滅していても、この商店街のにぎわいは変わらなかった。浅草神社がまだ残っているからだ。
 しかし夜は近隣の地域と変わらず寂しい場所となった。
 榊は車の脇に立って、アーケードを叩く雨音を聞いていた。
「‥‥今は浅草のアーケード街の中だ」
 榊は喋った。相手は電話回線の向うから答える。
『我々としては助けられんな。それだけの装備をもっちゃいないんでね』
「会合地点を変えられないのか」
『こちらにも準備ってもんがあるんだ。申し訳ないが、そういうことだ』
「カシワバラを失うかもしれないんだぞ」
『それはそれで残念だが、こちらとしてもどうしようもない』
「ここで手を切ることもできる」
 〈アリアドネ〉は小さく笑ったようだった。
『なるほど、そうすれば我々が出ざるを得ないな。‥‥しかし、その前に彼女は捕まるだろう』
 メイは電波探知装置のリフレクタを埋め込まれている。榊はメイの言葉を思い返した。電磁遮蔽されている騅から降りれば、闇の中でサーチライトを照らしているように目立つだろう。
 榊はふと後部座席に目をやった。メイが榊を見上げている。表情は無い。
 すがるな。榊は思った。‥‥俺にすがるな。
「‥‥オーケイ。もうしばらく待っててくれ」
『期待している。‥‥その娘は希望なんでね。それじゃ』
 アクセスは切れた。
 希望、だって?榊はメイを見つめた。奴等は何を考えている。
 水口が車から出てきた。
「何してるの?連絡は終わったの?」
「ああ」
 榊は頷いた。
「それで向うは何て」
「助けられない。それと、メイは希望なんだそうだ」
「どういう意味」
「俺も知りたい」
 車をはさんで榊と水口はしばらく黙ったまま互いを見つめていた。先に視線をそらしたのは水口の方だった。頭上を見上げる。
「ヘリの音は聞こえないわね」
「音を消しているのか、あるいは雨音に消されているか」
「心配症ね」
 榊は答えなかった。〈アリアドネ〉の言葉が引っかかっていた。榊が彼の言葉に従ったのは「敵の敵は味方」という古い原則にのっとっただけだった。〈アリアドネ〉を誘拐請負業者だと解釈していたからだ。誘拐された者を誘拐者の手にゆだねるのは、本来なら道義的に劣ることかもしれない。しかし、メイ、あるいはサカキバラ・メグミは保護者の下に戻りたがってはいないのだ。だから榊はそのオプションを選択した。
 〈アリアドネ〉はメイを金蔓の意味で「希望」と言ったのだろうか。榊は思った。しかし、それならもっと別の表現を使うだろう。与信残高に困っているのか?だとしたらずいぶん大袈裟な言い方だ。使ったとして不思議はないが、しかし‥‥。
「‥‥休むに似たりよ」
「え?」
 榊は我に帰った。水口が今にも弾けそうな笑みを口元に漂わしている。
「ナントカの考え休むに似たり、って奴よ」
 榊は苦笑した。
「馬鹿野郎。乗れ」
「あら、おっかない」
 榊は微笑みながら運転席に戻った。バム、と音と立ててドアが閉まった時、榊は真顔に戻った。ルームミラーに手を伸ばし、メイの顔を写す。彼女なら相手の真意を見抜けただろうか。彼女の能力なら、相手が何を考えているのか見抜くことができただろうか。榊には彼女の奥が見えない。
「明」
 水口の声に促され、榊は車をゆっくりと走らせた。無人のアーケード街の中を騅は走った。ヘッドライトの光の中に、幾つものシャッターが流れ去る。
 適当な所で左に折れないとならないはずだ。榊は必死になってこの付近の位置関係を思い出そうとしていた。
 ふとルームミラー越しに土屋と目が会った。彼女は思いつめたように榊を凝視していた。
「ねぇ、こんなときに聞いて悪いけど」土屋が口を開いた。「あんたたち、本当は何物なの?」
 榊は水口と目配せを交わした。水口が答える。
「フリーのデータリサーチャーよ」
「じゃあ、さっきの電話は何だったの。橿原って誰?NTNがどうして出てくるの」
「話せば長くなるわ。でも、信じて欲しいのだけど、私たちはNTNに雇われてはいないわ。断ったのよ」
「何を」
「NTNもメイを捜しているんだ。なんでかは知らないが」
 榊が代わって答えた。
「橿原ってのは」
「NTN保安部部長よ」
 土屋がメイに目をやる様子がミラーに写っていた。
「なんでこんな子供を追い回すの」
 榊には答えられなかった。NTNが捜す理由は幾つか思い付く。例えば取引の材料にする、という理由はあっても不思議じゃない。しかし、〈アリアドネ〉の言葉が引っかかった。
「NTNがやることにいちいち驚いてなんていられませんよ」水口が答えていた。「連中は何だってやるんだから」
 榊は車の速度を落とすと、慎重に角を曲がった。
「でも理由もなく誘拐はしないでしょ。――それともメイを助けるつもりなのかね」
「見当もつかないわ。でも、少なくとも損得勘定無しに人助けなんてしないわ」
 雨粒がフロントガラスに無数の花を咲かす。パラララッと雨が屋根を叩いた。榊はワイパーを動かす。ヘッドライトを浴びてふりしぶる雨は光の筋になり、暗いアスファルトに吸い込まれた。ヘリの姿はまだ見えない。
「身代金でも取るのかね」
 それは無い。榊は思った。
「それは考えにくいわ」水口が答えた。「NTNは困っていないし。でも、何か政治的な取引なら考えられなくも無い。彼女を保護した見返りとして代償を要求する、とか」
 榊はかすかに眉をひそめた。しかし、それではNTNは少なからず疑われる。NTNと誘拐された子供との接点は普通、まずない。やはり〈アリアドネ〉の言葉が鍵か。
 鏡の中のメイと目があった。彼女の目はまっすぐ榊を凝視していた。あの目だった。最初に彼女と言葉を交わした時の目。
 メイは俺の何を見ているんだ。‥‥俺の奥まで見透かしているのかもしれない。
 榊は思った。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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