雨脚は激しくなっていた。榊達の乗る騅は合羽橋交差点の近くの路地で停車していた。雨が騅の車体を洗っていた。車内で起きているのは榊だけだった。
榊はナビゲーションシステムにパッドから割り込みをかけていた。TYISP(東京横浜産業帯警察)の交通管制局と交信せずに位置情報を得るつもりだった。交通管制局と交信があれば、手がかりを与えることになる。
「‥‥よし」
榊はナビゲーションシステムのエントリーポイントを探し当てた。パッドでディゾルバープログラムを実行させ、システムをファンクションセクションに解体する。騅に組み込まれたハードウェアユーザーインタフェースとソフトウェアインターフェースが分離し、サブプログラムがあらわになる。榊はピーパーを実行し、通信ユニットにアクセスをかけるプログラムを選り分けた。再びピーパーを実行し、通信プログラムにアクセスするプログラムを検出する。そしてさらに‥‥。榊はサブプログラム群の呼び出し関係を洗い出すと、今度は簡易プログラムを組みはじめた。アイコンを組み合わせていく。
榊はGSP関連のサブプログラム群を直接叩くつもりだった。
「うまくいったら‥‥」
おなぐさみ。
榊はくみ上げた雑なプログラムを実行させる。助手席側のフロントガラスがぼんやりと白く光る。ヘッドアップディスプレイシステムにアクセスしたのだ。
助手席で水口がうめいた。
「すまん。起こしたか。‥‥まだ眠ってろ」
しかし水口はシートの上で姿勢を正した。
「何してるの。‥‥上野?」
「迷ったんだよ。東京は滅多に来ないからな」
「馬鹿ね」
フロントガラスに地図が表示される。
「やった」
「何を?」
「場所が解った」
榊は地図を記憶に焼き付けた。今いるのは松が谷。目的地である上野公園はほぼ真西に行ったところにあるが、上野駅が間にある。
榊は携帯端末を起動させた。
「榊だ」
『ずいぶん待たせるな』
「そちらで検問の情報は掴んでいないか」
『TYISPが清洲橋通りに封鎖線を張るらしい』
警察無線のデコーダを持っているのか?
「遠回りしないと駄目だな」
『TYISPとYSP/GPの間はしっくりいってないんだろ?』
「ああ‥‥なるほど」
二言、三言、言葉を交わして榊はアクセスを切った。〈耳〉は外さない。榊はルームミラーをちらりと見やってから、身体をねじって後部シートを振り返った。
「土屋さん。メイ。起きてくれ」
二人は深い眠りに落ち込んでいるようだった。榊は土屋の膝をゆすった。土屋が反射的に身体をちぢ込める。
「申し訳ない。起きてくれ」
「なんかあったの」
「メイを床に隠してくれ」
「何?」
「メイを床に寝かして、隠してくれ。検問を抜ける」
ようやく土屋も榊の意図を飲み込めたらしく、傍らのメイをゆさぶった。榊はメイに床に身を身を隠すよう指示した。メイはすぐにそれに従った。メイは土屋の脚の下に潜り込んだ。榊はそれを見届けると、前に向き直った。
「あと少しだ」
「そう願いたいわ」
水口が答えた。
榊は騅を走らせた。ルームミラーを見ると、土屋は再び眠りに落ちていた。
「明。〈生え抜き〉の子って変わっているのね」
水口はルームミラーを気にしながら囁いた。
「どうすればあれだけ早熟に育つんだろうな」榊は呟くように答えた。「彼女は大人びているんじゃないんだ。一足飛びに大人になっているんだ」
「‥‥そんな感じね。〈系列〉も酷いことをするものね」
「酷い?」
「不自然よ。子供を仕事の道具にすべきじゃないわ」
そうなのだろうか。榊は考え込んだ。系列は取り上げた子供時代と引き換えに将来を保証している。系列の外には〈自然〉に育ち、将来が保証されない子供が大勢いる。どちらが良いのか、決められるものだろうか。
しかし、メイはこんなことを言っていた。――「可能性はありませんでした」
榊の脳裏に系統樹が浮かぶ。どこでそれを見たのか、とうに忘れていた。それは環境に適応した生物の系譜。しかし、〈系列〉自体も現実に適応した姿だ。
いや、それとも〈系列〉が現実を作ったのか。
水口は独り言のように話し続けている。
「子供をあんなふうにいじるなんて許せないわよ。そう思わない?」
榊は答えなかった。何が良いのか、悪いのか、何を基準に判断すればいい? すべては足を降ろす場所で変わってしまう。水口が彼女なりの善意で裏打ちされた正義感に突き動かされていることを榊は疑わなかった。しかし、その感覚ですら彼女が育った環境によって作り上げられたものだ。メイと大して違わないのではないか?
車は清洲橋通りに近づいていた。右手には暗闇の中でシルエットだけとなった建物が見える。寺のようだった。前方ではぼんやりとした赤い光が左右に揺れている。TYISPの装甲バンが交差点の明かりを浴びて停まっていた。センターライン上には赤く光るコーンが等間隔に並び、それぞれの周期をもって明滅を繰り返していた。その赤が濡れたアスファルトに映る。
榊は車を静かに走らせ、バンの手前、TYISPの警官が佇む前で滑らかに停車した。
「シールドを降ろせ」
ステアリングに取り付けられたスイッチを押しながら榊が言うと、ドアシールドが静かに降りた。雨のふりしぶる音が入り込む。TYISPの警官がごついハンドライトで車内を照らした。警官は二人いた。
「どちらへ?」
『あなたのクレジットプロフィールが参照されました』
〈耳〉が囁く。
「荒川区の町屋まで。友人を送るんですよ」
「失礼ですが、おとなりは」
「SIL(Spouse-In-Low)です」
「榊さんと水口さんですね」
「そうです」
「ずいぶん遠くまで来られたものですねぇ」
榊はひやりとした。
警官が後部シートにライトを向ける。榊はルームミラーに目をやった。土屋は眠っていた。あるいは、そのふりをしていた。強力なライトなのが幸いして、メイは完全に影の中に消えていた。
「‥‥どうも。ご協力ありがとうございました」
警官が言った。榊は会釈してみせると、車を静かに加速させた。