アンダー・ウォーター
20.

 榊はメイを抱き上げた。左の肩に半ば担ぐように抱きかかえる。メイは榊の首に両手を廻した。メイの身体は子供のくせにずっしりと重かった。
「どうしても行かなくてはだめなの」
 メイを抱き上げたまま部屋を出ようとする榊を土屋が遮った。
「SP/GPの捜査範囲は絞り込まれている。ここは危険だ。メイにとっても、あなたにとっても」
「メイを隠しておけば」
「いや、それは難しい‥‥」
 榊が答えかけた時、メイが身をよじって土屋の方を向いた。
「あまり効果は望めないわ。わたしのおしりの脂肪組織の中にはリフレクタが埋め込まれていて、無線呼び出しに反応してしまうの」
「でも鉄筋なのよ」
「榊さんが携帯端末を使えたでしょう。無線電話の電波を各部屋に伝えられるようにアンテナ線が張り巡らされていると考えていいわ。そういう建物では、わたしに対する呼び出し無線を遮断できない」
「じゃあ手術すれば」
「時間が無いわ。それに、こんなこと言って悪いと思いますが、ここで外科手術を受けるつもりはありません」
 土屋の表情を見て、榊の心は痛んだ。クラッドが土屋の後ろから静かに近づき彼女の肩に手をまわした。土屋の手がクラッドの手に重なる。土屋は寂しげな笑みを浮かべた。
「無理を言うもんじゃないよね。メイはもともとここの子じゃないんだし」
 メイが右手を伸ばして、土屋の頬を触った。土屋が驚いたようにメイの顔を見つめる。メイは何も言わず、手をひっこめた。
「船を出すんだな」
 クラッドが言った。
「ああ。貸してくれるか」
「動かせるのか」
「なんとかなるだろう」
「おれが一緒に行ってやる。大人二人に子供一人なら大丈夫だ」
「いや、だめ」土屋がきっぱりと言った。「行くならわたしだ。ここの水路のことなら徹よりも当然わたしの方が詳しいし、夜にも馴れてる」
 突然のことで、榊は答えるのをためらった。土屋がたたみかけるように続ける。
「いいわね。でないと、後どうなろうとあんたたちを外には出さないよ。むざむざ死なせるようなもんだからね。それだったらここにいたって同じだ」
 筋は通っているわね、とメイが榊の耳元で呟く。クラッドはにやにやと笑っていた。
「OK。土屋さん。頼みます」
「決まりね」
 土屋は榊の肘を掴んだ。
「ついてきな」

 先導する土屋が持つ懐中電灯の灯かりを頼りに榊は桟橋を歩いた。メイは首にしがみついている。クラッドが榊の後ろを歩いていた。
 風が吹いていた。冷えた風が。
 雨になるな、と榊は思った。見上げれば星が隠されているのがわかるだろう。しかし足元が怖くて榊には見上げることができなかった。
「降るわね」
 メイが囁く。彼女の声に隠れた妙な色気に榊は総毛立つ。抱きかかえている身体が声の主でないようだ。
「降るな」
 榊も呟く。
 しっ、とクラッドが鋭く制止した。
「聞こえないか」
「何が」
 土屋が振り返る。
「静かに」
 榊は背筋が冷たくなるのを感じた。ローターブレードが空気を叩く音がする。しかしその音はまだ小さい。まだ遠い。
「急ごう」
「船まであと少しだ」
 土屋が呟き、三人は再び歩き出した。榊に耳には桟橋の柱に打ち寄せる波の音が途切れることなく響いていた。その音の向うで、低いビートが鳴り続けている。いやらしいほどリズミカルに。
 どこか暗闇の向うで魚が跳ねた。どこかから漏れる小さな笑い声。
「ここは好きだったわ」
 メイが囁く。
「でもわたしはこの世界の人間ではなかったのよ」
 咄嗟のことで榊には彼女が何を言っているのか理解できなかった。ただ、声にこめられた寂しさだけは感じ取ることができて、榊はメイを抱き上げた腕に力をこめた。
「船着き場よ。着いたわ。‥‥こっちへ」
 暗がりの中、薄ぼんやりと船のシルエットが並んでいた。懐中電灯の光の輪が不規則に、並んだ船をなめる。
 土屋は迷う様子もなく、船の一つに乗込んだ。クラッドに後ろからうながされ、榊も後に続く。クラッドは桟橋の上でしゃがみこんだ。
「じゃあ、元気でな。メイ」
 メイは榊に抱きかかえられたまま手を振った。
「向うに着いたら手紙を出すわ」
「まるで大人のせりふだな」
 メイは答えなかった。榊もいい加減、指摘するのをあきらめた。
「出すよ。船縁に掴まって。落ちるんじゃないよ。こう暗くっちゃ、落ちても拾えないんだから」
 メイが手を解き、船底に立った。榊は船底にしつらえられた腰板に苦労して座った。舳先をはさんでクラッドと向き合う格好になる。メイが彼の横に、無理矢理入り込んだ。
「この子を頼んだぞ」
 クラッドが言う。
「なりゆきだ。やり遂げるさ」
「リサーチャーなのにな」
「たまにはいいさ。こういうのも」
 船外機が派手な轟音を上げた。スクリューが逆転し、小船は揺れながらバックした。
「ネットで会おう」
 クラッドが半ば叫ぶように言った。
「ああ、また会おう」
 榊は答えた。土屋が舵を操り、船は舳先の向きを替えた。暗い水路が闇に溶けて前に続いている。
 土屋は船外機のギアを一旦ニュートラルに入れ、船が落ち着くのを待った。
そして船の向きが落ち着いた頃合いを見計らい、ギアを前進へ入れた。スクリューが泡立ちながら回転を始める。船は夜の水路へ乗込んだ。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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