東京駅は浅瀬にあった。棄てられたビルの群れが沖合い2キロまで建ち並ぶ。駅舎は島のようだった。その周囲には2メートル堤防が張り巡らされ、かつてのターミナルには水上バスが出入りしていた。
榊は八重洲南口の船着き場横で所在なげに突っ立っていた。波に夏の陽射しが乱反射して、外は眩しく明るかった。水蒸気が構内にこもり、蒸し暑い。
この八重洲南口で平底船を待つ人々は、奇跡的に水没を免れた有明に赴く人や、あるいは水没した街そのものが目当ての観光客達だった。観光客といっても乗合バスを利用するぐらいなので、それほど金が有り余っている人たちではない。経済的に余裕のある人はわざわざこんな所には来ない。
榊は竹細工の扇子をあおいだ。
有明行きの船が出る。榊はサングラス越しに水上バスを見送った。次の便は30分後。
カーキの半ズボンに極彩色のシャツをラフに着た男がゆっくりと榊に方に近づいてきた。榊はサングラスを外して胸ポケットにしまった。
「――ベオウルフ、か?」
男が訊いた。榊は頷く。
「クラッド。‥‥はじめまして、というのも妙なもんですね」
「そうだな」クラッドと呼ばれた男はうっすらと笑みを浮かべた。「以前電話で直接話をしたことがあったな」
「あの時は助かりました」今度笑みを浮かべるのは榊の方だった。「あの件については、残念ながら話せません。世話になっているのに申し訳ないですが」
「薄々気付いちゃいるさ。NTNがヌルくなったし。‥‥いや、今日はそれとは関係ない。ちょっと付き合ってもらいたいんだ」
榊は相手の目をわずかの間覗き込んだ。
「いいでしょう」
二人は蒸し暑いコンコースを並んで歩いた。八重洲口は閑散としていた。真昼の陽射しが表の水面に反射し、壁に光の波がゆらいでいた。
「ベオウルフ」クラッドはためらいがちに話した。「あなたの職業はデータリサーチ、のようなものだって?」
「そこらへんが微妙なところでね。データ探しであったり、人探しであったり」
「系列の専属かい」
榊は首をふった。
「フリーでやってる。‥‥ここに呼び出したのは仕事の依頼ですか」
クラッドは言葉を濁した。
「そういうことになるな。ただ、本当のところ、ベオウルフが満足するような支払いができるかどうかは解らん」
つまりタダ働きになるかもしれないということだった。フリーランスとしては高い評価を得てはいるが、悠々自適の暮らしを送っているわけではない。ボランティアはできれば願い下げにしたかったが、クラッドには大きな借りがある。その借りを返すことに榊はやぶさかでなかった。
しかし、クラッドの口振りが気になった。
「とりあえず、事情を教えてください」
「そうだな。後で話すよ。とりあえず案内させてくれ」
二人は黙ったままコンコースを歩いた。水上バスの到着を知らせる放送が構内に虚ろに響いた。バスの側舷にあるタラップが降り、乗客たちがどっと吐き出される。日本橋方面にまだ残っているビジネス島から来たサラリーマン達だった。彼らはどこかくたびれていた。
二人はそのサラリーマンの流れを横切った。
「今、彼女のところに住み込んでてね」クラッドが言った。「1週間になるかな。――本所という所だ」
「地名だけは。‥‥あの辺りは殆ど沈んだんじゃなかったかな」
「実際沈んでるんだ。でもあれは5代続いた江戸っ子ってやつで、あそこを離れるつもりがないようでね」
「婚姻契約は?」
「いや、そういう話はまだ」
榊は微笑んだが、何も答えなかった。
二人は八重洲北口から外に出た。真昼の陽射しと波からの照り返しが強烈だった。榊はサングラスを再びかけた。
クラッドは榊を桟橋の先へ案内していった。簡単な作りの浮き桟橋には、何隻もの小さな平底船が舳先を揃えて接岸していた。船は船外機があるものや、櫂のあるもの、果ては艪こぎのものまで様々だった。かつて東京をくまなく覆っていた地下鉄が水没し、道路も寸断されて以来、こうした小型の船は地元住人の大切な脚となっていた。
クラッドは小船に乗り移った。船外機と櫂がついた船で、舳先には真新しいロック装置が取り付けられていた。榊が船に乗り移るとき、1メートル程の深さにアスファルトの水底が見えた。底には白線が延びていた。榊の人差し指程の小魚の群れが横切った。
榊は舳先の方に腰を降ろした。古いFRP製らしい船体で、船底には濁った水がたまっていた。クラッドが船外機にキーをさしこむと舳先のロックが外れ、もやい綱が水面に落ちた。
「ちょっと揺れる。注意してくれ」
クラッドはそう言うと、櫂を持ち上げ、桟橋を押した。船はゆらゆらと揺れながら、接岸している小船の列から離れた。榊は初めて東京駅を外から眺めた。水没した地下部分の機能を高架部分の拡張で補ったため、古い赤レンガ造りの駅はすっかり隠れてしまっている。横須賀線を支える橋脚の間からそれらしき壁が見えているぐらいだ。
クラッドが船外機のスターターを勢いをつけて引いた。水素燃料を使ったエンジンが唸りをあげる。小船はたちまちのうちに速力を上げ、榊は遠ざかる東京駅をしばらく眺め続けていた。