磯子の水素燃料生産プラントは数え切れないほどの水銀灯がまぶされ、ライトアップされたパイプや塔、タンクの群れは夜に沈むことを拒絶しているようだった。頭上を覆う分厚い雲の底はプラントの光を受けてほのかに白く明るい。雲はプラントを押しつぶすように思えるほど低く垂れ込めていた。空気はまとわりつくように湿っている。南西の海上から延びる雲の舌先が東京湾にまで達していた。朝方にわか雨があるだろうと、どの系列の気象予測サービスも流していた。
水口はプラントの灯かりを右から受けながら、車を線路沿いに走らせた。車は数分で突き当たりのT字路にぶつかり、彼女は信号が変わる寸前に左折する。次いでTYISPの磯子基地を右手に睨みながら右折。無人の高速トレーラーが1
台、2台と脇をすり抜けていく。
水口はそのコンヴォイの後を尾けていった。トレーラーの後部扉には緑陽輸送のロゴとイコンが大きく塗装されていた。水口は最後尾のトレーラーとの相対速度と車間距離に注意する。その2つの数値はフロントガラスの隅に、目障りにならない程度に明るく表示されていた。
コンヴォイは掘割川にかかる橋をわたり、YSPへ突進していった。水口もそれに続く。
「オン」水口の声を携帯端末が拾い、パッドを起動する。「コール。ホーム」
携帯端末そのものの電話機能はマスキングされていて、パッドの動作が優先する。パッドは先ほどまで彼女がいたフラットへ電話をかける。
『はい。水口です。ただいま留守にしており‥‥』
「リプレイ」
『‥‥留守中の電話、は、ありません、でした』
電話機にプリセットされた音声が答える。水口は電話を切る。
「ループバック」
パッドは水口によって前もってプログラムされていた手順を実行した。パッドはフラットに電話をかけ、フラットの交換機からブリッジを経由して、自分自身に電話をかける。水口の耳の中で電話の呼び出し音が小さく鳴った。
「オフ」
ここまではうまくいった。水口の口元に笑みが浮かんだ。こうした仕掛けに榊の、ひょっとしたら水口自身の生命をかけることになるかもしれない。普段のリサーチなら失敗しても2度目がある。しかし、今回、2度目はないかもしれない。すべて1度でやり遂げなければならないかもしれない。
彼女は口元を引き締めた。
車は根岸の駅前を通り抜ける。時速110キロ。法定速度は遵守している。つまらないことで捕まりたくはなかった。YSPのACCS(自動車両制御システム)が操縦に干渉しているので、今の速度を保つ限り面倒な事故に巻き込まれるおそれはまずない。
コンヴォイは幾つかの交差点を通り抜けた。赤信号に止められることは無かった。コンヴォイの進行をスムーズにするため、信号が制御されているのだ。水口がコンヴォイの後をびったりと尾けているのはその御利益にあずかるためだった。
白っぽいセラミックパネルで化粧されたビルで本牧の丘は覆われていた。海側のかつて石油タンクが並んだ埋め立て地にはやはり白っぽいビルが防風林のように建ち並ぶ。それら防風林のようなビルの基礎部分は5メートルの高さがあり、他のビルの基礎と連結していた。波打ち際ではそれよりさらに1メートル嵩上げされている。
コンヴォイと水口が操る〈騅〉はそんなセラミックパネルの谷間を疾走していた。しかし、根岸線の高架をくぐると、コンヴォイのトレーラーはどれも左のウィンカーランプを明滅させた。コンヴォイは速度を落とすことなく間門の交差点を左折し坂をあがっていく。水口はそのまま交差点をまっすぐに走り抜けた。青信号の御利益はここまでということになる。
水口は自然と1年前のことを思い出していた。あの夜も明はこんな風に車を流していたのだろうか。
あの夜、初めて水口が榊と会った夜、水口がバイクで榊の車を追い越したのが始まりだった。水口はNTNに追われ、幕張から木更津、そして川崎から横浜へと逃げていた。榊の車は生麦のあたりでちんたらと走っていて‥‥。
車は三渓園の横は走り抜けた。三渓園は本牧の丘の中で唯一昔のまま残された場所だ。暗がりの中で濃い緑と影が複雑な文様を織り成して蠢いている。夜の林は何者かが潜んでいるようで不気味だった。
右手にYSPの都市機能維持施設群を見ながら前の黒いスピリチュアル44年型を追い越す。レーンを左に移り、アクセルを踏み込む。車載ナビゲーターはスピリチュアルのナビゲーターと交信し、追い越しの安全を確保する。立体交差の下で騅はスピリチュアルを追い抜いた。スピリチュアルの相対速度がマイナス方向へ加速していく。水口は中央のレーンに騅を戻さなかった。
‥‥どこからともなくあらわれたのよね。あの時。
水口はガススタンドで撃たれそうになった時のことを未だにはっきりと覚えていた。かすかな音を立ててホバリングしているNTNの武装ヘリ。ガススタンドの従業員の頭が消しゴムで消したように消えた瞬間。アスファルトに鳴るタイヤ。開いたドアの向うに見えた榊の口元‥‥。
榊があと少し後れていたら、水口はNTNに捕らえられていた。命があったかどうか、それは怪しかっただろう。
水口の背筋が一瞬ひやりとする。今でもあの恐怖は忘れられない。
助手席側のグラフィックに高速湾岸線への進入コースが表示される。右手前方にYSPGH(YSP総合病院)の建物が幾棟も並んでいる。ヘリポートが無数の航空灯に飾られて目立っていた。
水口は騅を左に寄せ、そのまま高速湾岸線の本牧ランプへ進入する。ACCSがYSPからTYISPに切り替わる。管制制御のハンドオーバーを知らすアイコンが視野の隅で点滅した。左右が消音壁に遮られて夜の景色は何も見えない。もし見えていたら本牧は光の海でさぞや壮観だろう。
騅は本牧ふ頭のチェックゲートを通過する。ゲートは車載コンピューターと交信して車の登録ナンバを記録し、出口ゲートの通過時に料金を銀行口座に請求する。水口は記録を残すことの危険性を認識していたが、とにかく急ぐことを第一に考えていた。
各社の無人トレーラーが団子状になって走っていた。水口はじりじりしながら隙をうかがっていた。とにかく一刻も早く羽田に行き着きたかった。