アンダー・ウォーター
27.

 差し込む光を感じ、榊は瞼を開いた。2、3度瞬きする。光が目に痛い。
 光は助手席側から入り込んでいた。日は不忍池の向う側に並ぶ建物から姿を表したばかりだった。池を取り囲む柳の影が長く道路に伸びていた。
 ルームミラーを見ると、土屋は後部シートに横になって眠っていた。朝日を浴びてはいなかった。車内が暑くなるまで眠っているだろう。まだ眠っていた方がいい。
 水口はバケットシートの中で身をよじるようにして榊の方を向いて眠っていた。器用な奴だ、と榊は思った。
 榊は車の外に出た。車の通りは全く無く、路上駐車している車も目の届く範囲には騅一台しかなかった。夜の雨が熱を吸って空気はひんやりとしていたが陽射しは熱かった。午前中は蒸すだろう。
 大きく伸びをすると背骨が小気味良い音を立てた。頬に手をやると、埃と脂でべとつくのがわかった。榊は池の方へ歩いた。どこかに顔を洗える所があるかもしれない。
 柵をまたいで池を巡る遊歩道の敷地に入る。植え込みを抜けるとすぐに水飲み場が見つかった。
 ――メイは口をすすいだろうか。ふとそんな思いが浮かび、榊は一人、小さく笑った。今頃なら北千住はとうに越えて北関東か上信越エリアまで進んでいるはずだ。系列の追求を振り払うつもりなら休み無しに走り続けるしかないはずだ。あの連中なら抜かりは無いだろう。
 〈アリアドネ〉‥‥あの連中は何者だ?そして〈オムニュビーク〉。新しいネットワーク。RiPSに被さる新しい――。
 ――そのために〈生え抜き〉が作られたのよ。
 そのためにメイは生まれた。デコーダとして。既存のシステムでは扱えないデータが流れる。橿原が色気を出すわけだ。NTNの本能的な警戒心だろう。
 だが、しかし、〈オムニュビーク〉とは何だ?
 榊は水飲み場の前でしゃがんだ。飲み口とは別に洗浄用の蛇口が付いている。榊は取っ手をひねった。透明な水が迸る。
 榊は両手で水をすくい、顔を洗った。何度か顔を洗い、最後に両手を洗う。
ひとしきり水に触れて気が済むと榊は立ち上がり、両手を振って水気を払った。手で顔をぬぐう。濡れた手で髪をなでつけた。
 ようやく人心地がついたように感じた。陽射しを嫌い、サングラスを取り出してかける。歩道に水口の姿があった。
 水口は不安気に周囲を見回していた。榊は口元に笑みを浮かべながらさっき来た道を戻った。
「明? ‥‥シュミ悪いわね」
 榊は肩を小さくすくめた。
「あっちで顔を洗えるぞ」
「本当? 良かった‥‥」水口は柵を乗り越えた。榊とすれ違う。「タオル持って来てね」
「なんで俺が」
「土屋さんも起こした方がいいかしら」
「‥‥いや。寝かしておこう」
 水口はぎこちなく微笑んだ。
「そうね。‥‥タオル、忘れないでね」

 土屋が目を覚ましたとき、車は言問橋から少し離れた場所に停まっていた。ルームミラー越しに助手席の水口と目が合う。
「おはようございます。土屋さん」水口が声をかけた。「榊は今、近所に朝食になりそうなものを調達しに行ってます」
「‥‥この近所じゃそんな気の効いた店はないと思うけど」
 土屋は身を起こした。
「今、何時?」
「8時15分といったところですね」
「外に出ていい?」
「どちらへ」
 土屋は答えるのに躊躇しているようだった。
「人目につかない所。行って、すぐ戻ってくるわ。その‥‥解るでしょ?」
 水口は彼女の表情でわかった。サイドボックスを開き、吸水パックを取り出す。
「わたしはこれで済ましました。後でこちらで処分しますから。使い方はご存知ですよね」
「‥‥この説明書き通りにすればいいんだね」
「そうです。わたしは外に出ていますから」
 水口はそう言い残すと車の外に出た。折り良く、榊が通りの角から姿を現した。手ぶらだった。
「そこで待ってて」
 榊は戸惑ったように立ち止まった。
「なんかあったのか」
「そんなところよ。‥‥何も無かったの?」
「軒並み店をたたんでいるよ。もっと南に行かないと駄目だな」
「わたし空腹で倒れそうよ」
「ハイドロで動いてないと解って嬉しいよ」
「ばかね」
「空腹なのは俺も同じだよ」
 土屋が車から出てきた。
「水口さん、袋は‥‥」
「車内に置いておいて構いません」
 榊はようやく事情を察した。車に近づく。
「土屋さん、昨日はとんだ災難でしたね」
「普段もあんな仕事をしてるの?」
「とんでもない。警察に追い回されるなんて、以前どこかのじゃじゃ馬と関わり合いになった時以来です」
 水口が睨むが、榊は受け流す。
「ここ、昨日来た所?」
「そうです。堤防に上がりますか」
「そうね」
 堤防を登る斜路はすぐ近くにあった。三人は5メートル程の高さを登った。斜路はまだ濡れていた。
「あの子、自分からドアを開けたんだよね」
 土屋が言った。言って、それきり黙り込む。榊も水口も答えなかった。答えるべき言葉が見つからなかった。
「‥‥あの子は自分の世界へ帰って行ったのかもね」
 ――メイの世界。榊は足元が滑らないように気を配りながら思った。少なくともそれは水上にはなかった。
 堤防の上に出る。そこここに水溜まりが残っている。榊は川側の縁に立った。水面は2メートル程下に見えた。透明度は低く、暗い緑色に濁っている。川面は一見すると穏やかだが、流れは速く、力強かった。岸に打ち寄せる波の勢いを見れば、穏やかさが見せかけでしかないことが解る。
 水上でなければ水中か。
「船、ちゃんとありますね。あれですよね」
 水口のはずんだ声。そちらを振り返ると、水口が指をさしている。その先には小船が岸に横づけになっていた。
 土屋がテンポ良く階段を降りていく。榊と水口はその後に続いた。
「見送りはここまででいいわ」
「大丈夫ですか?まだお疲れじゃあ」
「水上に来たら帰ったも同然。ちょっと船を引っ張っててもらえる?」
 榊は雑草の束に縛り付けられた舫い綱を解いた。草はちぎれかけていた。土屋は船の舳先を掴んで引き寄せると、タイミングをはかって船に乗り移った。船が上下に揺れる。
「ありがとう。徹にはあたしから伝えておくわ」
「あまり力にはなれなかったですね」
「そんなことはないさ」土屋は腰を降ろしながら言った。「榊さんの忠告が無かったら、あのまま警察の手入れを受けていたよ。きっとね。だから‥‥助かったんだ。みんな」
 土屋は船のエンジンを始動させた。榊は舫い綱を放した。
「それじゃ」
 榊は軽く頭を下げた。船が動き始める。水口が手をふった。土屋は二人を見て微笑むとギアを入れた。船は加速し、岸から離れていく。船は川を溯り、半円を描いてターンした。舳先が川下を向いたとき、船は向こう岸の方へ移っていた。そのまま川を下っていく。後に白い航跡を引いて。
「とりあえず終わったか」
 榊は呟くと、踵を返して階段を登りはじめた。水口が慌てて後を追う。
「とんだ仕事だったわね」
「そうだな」榊は答え、そしてふと思い付いたように続けた。「俺達は俺達の世界に戻るか」
「何?」
「何でもないよ」
 文字どおりアンダーグラウンドへ、か。その時、水路に佇むメイの姿が榊の脳裏に浮かんで消えた。
「今出ると、川崎のレストランの開店時間にちょうど間に合う感じかしら」
「そうかもな」
 榊は水口の横顔を盗み見た。彼女も心の中に外からは伺えない領域を抱えている。それは俺も同じだ。そして土屋も。だが、メイが抱えている領域はずっと異質だ。そもそも〈メイ〉と思わせたかっただけだったかもしれない。あの〈声〉が言ったように、メイもメグミも初めからいなかったのかもしれない‥‥。
「どうしたの」
「いや。別に」
「早く車に戻ろう」
 地面へと続く斜路の前に来て、榊は川を振り返った。川はその中に何かを隠したまま、静かに流れ続けていた。それは昔から変わらなかったし、これからも変わらないだろう。変わり続けるのは川岸の景色だけだ。
 ――〈オムニュビーク〉。隠れた流れ。
「なにしてるの」
 水口の声にうながされ、榊は川への視線を引き剥がした。
「すぐ行くよ」
 そして斜路を降りていった。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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