アンダー・ウォーター
18.

 ‥‥街灯の殆ど無い暗い道を車は走っていた。サスペンションはいい加減効かなくなっていて、車体が上下に揺れるたび、鈍い衝撃がシートから伝わっていた。キャビンには防音材を抜かれたエンジンルームからの騒音が垂れ流しになっていたが、それでも遠慮無く鳴り響くヘリのローター音ははっきりと聞こえた。
 緑紫航空機械製の〈はちどり〉。機体の割には高出力のガスタービンエンジンを2機搭載し、機銃をぶら下げている。国内ではSP/GPにのみ納入されている。
「だめだ」男が助手席で怒鳴っていた。「早く迎えをよこせ。ヘリコがぶんぶん飛んでる‥‥そう、ぶ・ん・ぶ・ん、だ。やばいんだよ」
 運転席の女は一言も喋らない。時折ルームミラー越しに目が合った。冷たい薄ら笑いを浮かべていた。
 車が大きく傾いで右折する。4WACS(4輪動的操舵システム)でも惰性を制御しきれずタイヤが悲鳴を上げた。雨上がりの交差点で車体が流れる。ドライバーがカウンターをあてるが4WACSの復帰操舵行動と相性が合わずに細かく蛇行する。
「なにやってやがる」
 男が怒鳴る。ドライバーは無視する。
「GPの前にお前に殺っされそうだぜ」
 男の心配は杞憂に終わった。車は真上から銃撃を受ける。屋根が穴だらけになり、男は頭を砕かれ、中身をキャビンに撒き散らした。
「ちくしょう」
 女の声を初めて聞く。表情は解らなかった。彼女が叫んだのは、男が惨殺されたからなのか、フロントガラスに飛び散った血と脳漿で前が見えなくなったからなのか。女は血まみれの手でグローブボックスを開け、中からぼろきれを取り出すと、手早く目の前の分だけを拭き取った。アクセルを踏み込む。エンジンがすすり泣くような甲高い音を出す。
 がちっ、という音を聞いた。ドアロックが外された。ルームミラーを見ると、ドライバーが鏡越しにこちらを見ていた。
「あんたは逃げな!次に一瞬停めてやるから、その時逃げな!」
 うなずく。
 その道は見捨てられたような雑居ビル街だった。遠く暗くぼんやりと二つの巨大なビルが見えるが、あれは震災以降の経済的変動で放棄されたオフィスビルのはずだった。
 するとここは新川崎付近のはず。
 しかし考えがはっきりとまとまる間もなく、車は大きくスリップして雑居ビルの横手にぶつかる。シートの上から転げ落ちる。
「今だ」
 ショックにもうろうとしながらも、身体は訓練された成果を発揮して、勝手に動いていた。ドアに手を伸ばし、開く。そのまま外へ飛び出そうとする。飛び出す前に車はすでに動いていて、接地する頃にはすでに車は5メートル以上離れていた。
 ゴミ袋の間に転がり込み、痛む身体をなだめながら起き上がった時、車はすでに角の向うに消えていた。頭上を幾つかのローター音が飛びすぎる。銃撃音。タイヤの悲鳴。
 それらノイズは次第に遠ざかっていった。ゴミ袋の間で立ちすくみ、身震いする。身震いするとは思わなかった。

 メイは身震いして目を開いた。また身震いするとは思わなかった。彼女は思った。
 天井には古ぼけた蛍光燈。そろそろ寿命を迎えようとしている。メーカー名は判らない。榊と名乗った男の耳の後ろから顎の鰓にかけて目立たない程の縫合線が見える。他の二人に縫合線は無い。
 榊の耳には服の襟元から伸びたイヤホンが収まっていた。ホワイトノイズ障害を嫌ったのだろうか。それが理由であえてイヤホンを使っているのだとしたら、少なくとも彼はその点で賢明なわけだ。メイは思った。
 榊は小声で囁いており、メイの耳には断片的にしか音が届かない。深刻な表情で榊を見守っている他の二人にしてもそれは同じだろう。メイは榊の唇を読んだ。ほとんど真横に近い位置なので、口元が見にくく、少し苦労したが、途切れ途切れに聞こえる言葉がそれを補う。
「‥‥そうだ。彼女から聞いた。俺のクレジットプロフィールを参照すれば‥‥」
 彼は相手がネット上にいると仮定してしまった。しかし、それは誤りだ。メイは榊の横顔を見つめた。相手はネットの外にいて‥‥
「‥‥参照できないのか。じゃあ、こちらの身元を知らす手だてはないな。私の言葉を信用してくれとしか‥‥」
 メイは次の言葉を待って立ち上がろうとした。わたしが呼ばれるはずだ。
「‥‥彼女を出せと。なるほどね。しかしそれで解るのか?‥‥まぁ、そちらの言うとおりにするよ。少し待ってくれ」
 榊は上着の内ポケットからパームトーカーを取り出した。紫水情装製。メイはすでに椅子から立ち上がっていた。メイがすでに榊の前に立っているのを見て、彼の眉がわずかに動いた。
 不要に警戒させたかもしれない、とメイは思った。
「モニタラインは切らないでおきたい。構わないか」
 好奇心と警戒心。用心深く、紳士的。メイは榊がわざわざ盗聴の許可を求めてきたことを好ましく思った。おそらく断ってもモニタするだろう。それでも彼はなんとか公平にふるまおうとしている。なぜなら黙ってモニタすればそれで済む話だからだ。
 メイは頷き、パームトーカを受取った。メイよりも身体的に成長した人間の手に合わせられたパームトーカは、彼女の掌にはやや大きめだった。
「お電話かわりました。‥‥わたしです」
『カシワバラ・メグミだな』
 榊がそれとなくこちらを伺っているのを感じる。
「そうです。‥‥ミシマさんとパクさんのことは残念でした」
『パクの名を知っているのか』
「彼がそれとなく教えてくれたのです」
『なるほど、当人らしいな。ここにアクセスしてきたのは?』
「誰の味方でもなさそうですね」
 榊が苦笑する。
『何者だ』
「データリサーチャー」
『妙な所に顔をつっこんだもんだ』
「ところであなたは」
『‥‥アリアドネとでも呼んでくれ』
「あなたは男じゃないの」
 回線の向うでアリアドネは野太い声で笑った。
『リサーチャーに代わってくれないか』
 メイはパームトーカを榊に返した。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
Copyright (c) 1996-2010 Satoshi Saitou. All rights reserved.