アンダー・ウォーター
6.

 土屋晶という女性は榊より頭一つ分大きく、ひきしまった身体をしていた。腰まで届く髪を束ねている。
「で、あんた系列のために働いているんだってね」
 土屋は手近にあった椅子を引き寄せると腰を降ろした。榊にも座るようすすめる。クラッドは窓際によりかかっていた。
「系列に雇われることもあるし、そうでないこともある」
 榊は腰を降ろしながら答えた。椅子のガススプリングからはガスがすっかり抜けていた。
「彼はフリーランスなんだよ」
 クラッドが補う。
「系列の人間とは違う」
 土屋が怪訝そうにクラッドを見つめた。椅子がきしむ。
 フリーランスといっても、ここの人たちにしてみれば、系列の人間と変わらないのかもしれない。榊は思った。
「もし、今回の依頼が系列に漏れていると心配しているのなら‥‥」
 土屋が遮る。
「気を悪くしたなら謝るよ。別にあんたを疑っているわけじゃない。徹が連れてきたんだしね。なにしろ、こういう所で育ったから、口のきき方を知らないんだ。‥‥徹、あんたが変なこと言うもんだから誤解されちゃったじゃないの」
「俺のせいか?」
 榊はクラッドの方を振り返った。
「徹っていう名前だったのか」
「ここを出たら忘れてくれよ」
「‥‥どういうこと?」
 土屋が訊く。クラッドは非合法BBSユーザーの不文律について説明した。ユーザー同士の間では決して実名を明かさないというルール。
「変なことしてんのね。それで、あんたの通り名は」
「ベオウルフだ」
「ちなみに俺はクラッドだ」
「別に徹に訊いてないよ」
「そりゃどういたしまして」
 榊はにやにやと笑いながら二人を交互に眺めた。土屋は笑みを浮かべていたが、急に真顔に戻る。
「それで‥‥ベオウルフさん」
「呼び捨てで構いません」
「じゃあ、ベオウルフ。あんたならあの子の身元を調べられるんだね」
「手がかりさえあれば何とかなると思う。こういう仕事は初めてでしてね。やってみないことには」
「そういうものなんだろうね」
 土屋は一人頷いた。
「で、どうするの。あの子に会うのかい」
 榊は少しためらってから答えた。
「いや、まずはあの子を見つけた時の様子を話して下さい」
「いいよ。‥‥ねぇ、徹、悪いけどコーヒーいれてよ。二人分ね」
「俺の分は」
「じゃあ三人分作りなよ。もう」
 土屋は椅子の背に体重をあずけた。唇をなめる。
 彼女は語り出した。
「あたしはその日、半蔵門の闇屋に抗生物質と食料を買い出しに行っていた。まともな店で買うと薬はやたらと高いだろ。半蔵門だとずいぶん安く手に入るから、ちょっと遠いけど、足を伸ばすんだ。ボートは日比谷に留めておいて、あとは歩き。もう少し水嵩が増えてくれれば濠に入れて楽なんだけどね。
「で、その日もいつものように買い込んで日比谷でボートに乗った。日比谷からだと晴海水路が使える。晴海水路を伝って昭和水路に入り、そのまま北へ進んで日本橋川に出るってわけ。あの辺りは水上バスが多いから、広い水路だとけっこうしっかり掘ってあって、ちょっと喫水が深くても底をする心配がいらなくていいんだ。まぁ、喫水ったって50センチも沈んだら船縁から水が入ってくるくらいだけど、それでも、有楽町とか丸の内とか岸に近いところだと、うっかりすれば乗り上げるからね。銀座まで出れば、あそこはけっこうな深さがあるから、気は楽なんだけど。
「あたしはいつものコースを通って帰るつもりだった。その日も晴海水路を使った。それで、どこだったか、中央水路に出くわす何本か前の、脇路にあの子がいたんだ。あの辺りはビルの基礎がいい加減塩水にやられていて危なくて、立ち入り禁止の場所で、そうでなくても、子供が歩くような所じゃないわけで、あたしはボートを止めたんだ。気になるじゃない。
「あたしはボートをまわして、その脇路に入った。あの子、平気な顔して歩いていた。『何してんの』あたしは訊いた。そしたらあの子『歩いてる』って。それだけ。見りゃわかるじゃない。何かヘンだ、ってその時思った。度胸だめしみたいなもんじゃない、って思った。けっこうそういう子供がいるのよ。でもあの子はそうじゃない。『どこ行くの』『知らない』『名前は』『知らない』
そんな調子。で、あたし、ちゃんと言ってあげたわけ。今いる所は危ない所だし、潮が満ちてきたら胸のところまで水がくるよ、って。でもあの子気にしている様子じゃなかった。よく解らなかったのかもしれないけど、わたしにはそこまで解らないじゃない。
「船に乗りなさい、ってあたしは言ったの。『うん』ってあの子は答えたわ。あの子が乗る間、あたしはボートがひっくり返らないように、バランスをとった。当然だけど、あの子、濡れ鼠でさ。タオルを渡したわ。その時は10歳くらいに見えたけど、今ではよくわからない。あの子が身体を拭いている時、もう一度名前を訊いた。『わからない』って答えた。なんだか答えたくないみたいだった。妙に表情が無くて、あの子、なんだか‥‥」
 土屋は言葉を切った。榊は彼女の次の言葉を待った。
「あの子、見た目は子供なんだけど、中身は子供じゃないわ」
「大人びている?」
「そういうのでもない。あたし達とも違う。子供が背伸びしているのとも違う」 やはり、さっきの子がそうなのか。榊は思った。子供ではない子供。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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