振り向くと街は霞んでいた。水面に突き出たビル群はまるで蜃気楼のようで、存在感がなかった。
「何だ」
榊は首を横に振った。クラッドがぎこちない笑みを浮かべる。
「街を見ていたんだ」
榊がそう言うと、クラッドはようやく納得したように軽く頷いた。
「ここにくるには初めてか」
榊は頷く。
「クラッドはここには何度も?」
「4、5回。今回のはずいぶん長いな。ホストがうまく動いているか心配だよ」
「ちゃんと動いていたよ」
「自分もアクセスして確かめてるよ。あれにログインしたのは初めてだ」
二人は笑い声を上げた。
観光船が百数メートルほど先を横切った。観光船が残した波にぶつかり、小船は何度も大きくバウンドする。榊は肝を冷やした。
「用件をそろそろ話してくれてもいいんじゃないか」
榊は知らなかったが、船は隅田川と晴海運河の分流点にさしかかろうとしていた。右手には佃の洋上ビジネスサイトと橋の残骸が見えていた。左手では永代橋のたもとだけが無残な姿を晒していた。前方ではマンションやビジネスビル、工場の建屋が横に広がっていた。その光景だけを見れば、何事もない、ただの町並みだが、運河の水門が崩れたまま放っておかれていることが何事かを語っていた。
クラッドが口を開いた。
「ベオウルフは迷子の身元探しをしたことがあるかい」
「いや‥‥」榊は戸惑った。「迷子はないな。迷子を拾ったのか」
「迷子というか‥‥おれは迷子じゃないと思ってるけどね。彼女の方が」
「よくわからんな」
「申し訳ない。とにかくまず相談に乗って欲しい」
「事情が解らないことにはどうにもできないよ」
クラッドは船の進路を左によせた。
「‥‥先週、彼女が銀座で女の子を見つけた」クラッドは話しはじめた。「水路から外れた通りで、腿のあたりまで水につかりながら歩いていたそうだ」
「なんでまた」
「おれもそう思ったし、彼女もそう思った。泳ぐような所じゃないからな。干潮時だから良かった。潮が満ちてきたら溺れてただろうと」
「で、その子の身元が解らないのか」
「忘れたんだそうだ。当人はそう言ってる。おれは家出なんじゃないかと思ってるんだがね」
「TYISPに任せれば」
「彼女が信用してなくてね。それに、その娘も帰るつもりが無いようなんだ」
榊は小さく笑った。
「じゃあ、問題はないんじゃないのか」
クラッドは唸り声を上げた。
「おれはあの娘がSP(特別行政区)から出てきたんじゃないかと思ってるんだ」
「MSP(幕張特別行政区)?」
「わからんよ。そんなことは」
「それで私を」
「他につてがなくてね」
崩れた水門を通り過ぎる。クラッドは船の速度を心持ち落とした。水路の両岸に壁のように並ぶ建物はふじつぼや苔がはりついている以外、どれも大きな損傷はないようだった。ただし1階部分は水面下に没している。これら建物の本来の持ち主は、誰もがここを見捨てていた。そして、かつての住人と入れ替わるようにして、これらの建物は水上残留者と呼ばれる人々の住居になった。湿気から逃れるため、高い階が好まれたからだ。水面から顔を出してはいても、背が低い建物は水上残留者から見捨てられていた。そうした建物は手入れをする人もなく、海水に腐食され、朽ちるがままにされていた。
榊は両脇を流れ去る建物を見ながら答える。
「‥‥難しい仕事だな」
「ベオウルフでも難しいのか。ただ、もしあの娘がSPから出てきたのだとすると、‥‥解るだろう」
榊は頷いた。もしその娘がどこかの系列の終身社員予備軍、特に〈温室育ち〉つまり、特殊な心理プログラム下で生育された幹部候補生であれば、系列はやっきになって回収しようとするだろう。それはクラッド達にとって危険な結果をもたらすだろう。〈温室育ち〉に施される心理プログラムは各系列にとって最高機密事項に属する。そのプログラムを入手するために系列間で誘拐まがいの事件が発生しているというきなくさい話もある。クラッドが誘拐請負人に間違えられる可能性はおおいにあった。
「それで、もしその娘が系列の人間だとしたら、その時はどうするんだ」
「考えてない」
そうか、とだけ榊は答えた。船がまたバウンドした。