旧首都高の高架をくぐり、小船は隅田川へ乗り入れた。舳先のハロゲンライトは灯っていた。背後にはYSP/GPのヘリが迫る。ヘリの鼻先に吊るされたサーチライトが小船を照らす。
『そこのモーターボート、停船しなさい。そこのモーターボート、停船しなさい』
ラウンドスピーカーからの声。
「やかましっ」
土屋が面舵をいっぱいにとる。小船は大きくふくらんで右へカーブした。厩橋の残骸を通り過ぎる。
榊は船縁に必死になって掴まっていた。川に振り落とされたくはなかった。メイの方はと見ると、彼女もやはり船縁にしがみついている。船がバウンドした。メイのうめき声が榊に聞こえた。榊は彼女に同情した。彼自身うめきたかった。榊は追いすがるヘリを見上げた。サーチライトが眩しい。そして、そのさらに向うに、小さく、もう一つサーチライトの光条が。
増えてやがる。
榊は土屋にそのことを教えようとして、思いとどまった。そのことを教えたところで彼女がどうにかできるわけではない。
船の横を水音が走った。規則正しく、連続してしぶきが上がる。榊の背中がひやりとする。
「何!今の!」
土屋が怒鳴る。
「撃ってきたんだ」
怒鳴りかえす。
『繰り返す。そこのモーターボート、停船しなさい。そこのモーターボート、停船しなさい。今のは警告だ』
「うざったいねっ」
「土屋!頭を低く!撃ち抜かれるぞ」
ぎょっとしたように土屋が身を低くかがめる。水音が再び走る。土屋がバランスを崩し、そのはずみで舵の向きが変わる。それに気づいて、土屋は咄嗟に舵を反対へきった。榊とメイは遠心力で船から放り出されそうになる。ヘリの方はその隙をついて、頭上を越え、小船の前に出た。ホバリングしながら向きを変える。
「掴まってな」
「掴まってるよ」
小船はヘリから吹き降ろす風で作り出した同心円状に広がる波に正面からぶつかった。小船が上下にゆすぶられる。メイの身体が一瞬浮かぶのを榊は見た。落ちないでくれよと、榊は思う。彼自身は自分の身体が放り出されないようにするので精いっぱいだった。
激しい風が真上からたたきつけられる。真下に入り込まれたため、ヘリは再び機動をはじめた。ヘリは高度を上げた。
「橋くぐるよ。頭に気を付けて」
はっとして榊が前に頭を向けると、黒々としたシルエットが横たわっていた。昔、冠水を避けるために架け直された新駒形橋だった。桁下は中央部分で2メートル、袂の部分で1メートル半しかない。今は手入れする者もなく、腐食が激しい。
橋桁をかすめるようにして小船は新駒形橋をくぐりぬけた。YSPのヘリが橋の構造物を乗り越えるようにして降下してきた。別の一機も先行するヘリのコースを忠実になぞって橋を乗り越える。サーチライトが左右にふれる。
「言問だよね、言問」
「あとどのくらいだ」
「そんなややこしいこと訊かんで」
水音が走る。
『モーターボート、直ちに停船しなさい。さもないと射殺する。繰り返す、モーターボート、直ちに停船しなさい。さもないと射殺する。これは脅しではない。これは脅しではない』
「くそっ」
榊と土屋は同時にうめいた。
ごぼぼっ、という音がした。
「メイを。吐いてる」
はっとして榊がメイの方を見ると、彼女は船縁から水面を覗き込むようにして吐いていた。水音がすぐ近くを走る。弾の飛ぶ音がはっきりと聞こえた。榊はメイににじりよるとその小さな背中をさすってやった。右手の人差し指を彼女の口に入れて、吐しゃ物をかき出す。船がバウンドし、榊の身体が浮いた。
メイの全身が緊張し、彼女は再び吐いた。榊の手は彼女の吐しゃ物にまみれてしまうが、一回振り払っただけで、再び彼女の口の中に指を入れる。メイは頭を引いた。
「もういいわ。胃は空よ」
メイは唾を吐いた。
「口の中が‥‥」
メイが再び身体を丸め、全身が緊張する。しかし、何も出ない。
榊は川に右手をつっこんだ。後ろを振り返ると、2機のヘリはほとんど間をおかずタンデムに並んで飛んでいた。上下二つあるローターがはっきりと解った。
ヘリが再び上昇する。
「吾妻橋だ」
土屋が叫ぶ。榊が前方を向いたとき、すでに船は橋の下をくぐっていた。この橋も桁下が2メートル程しかない。
メイが船縁にしがみついて緊張した。
「大丈夫か」
榊は背中をさすってやる。メイは吐かなかった。
「胃液しか出ないわ。‥‥ミネラルウォーターが欲しい」
橋の下を抜けたとき、2機のヘリは前方に出ていて、行く手を阻むように浮かんでいた。
「突っ込むよ」
土屋は船の速力をさらに上げた。榊はメイの頭を抱え、船底に押さえつけるようにして覆い被さった。
弾が空気を切り裂く音が鳴り続ける。水音が、水しぶきが走る。
ばん、と乾いた音がすぐ近くで鳴った。榊が首をねじって音のした方を見ると、船縁に穴が開いていた。グラスファイバーが裂けている。
2機のヘリは船の進行を停めるように、船の前方に弾を撃ち込んでいた。しかし、船は速度を落とさず、船に押されるようにしてその弾幕が後退していく。
船は2機のヘリの間を通り抜けた。ヘリはすぐさま頭を抑えるための機動に移る。
船は旧東武鉄道の打ち捨てられた鉄橋の下をくぐった。ヘリは鉄橋の上を通り抜け、言問橋まで後退する。思い切って高度を水面すれすれまで下げ、船をほぼ正面から狙える位置を取る。
その様子は榊達にもわかった。サーチライトが真正面から船を照らしている。その向うに言問橋があるはずだが、ライトの強い光に消されて何もわからない。もう1機は船の後ろについた。
『直ちに停船せよ。さもなくば警告無しで射殺する。即時に射殺することも可能だ』
「はったりだね」
土屋の言葉に榊は首をひねって後ろを向いた。
「速度を落とした方がいい」
「なぜ」
「あの位置じゃ、真正面から撃たれる。メイにあたる心配がない」
「ああ‥‥くそ。そうか」
土屋は船の速力を落とした。
「西側の岸に近づけて」
「走って逃げるの?」
「チャンスさえあれば」
「‥‥オーケイ」
船は橋に近づきながら、ゆっくりと西岸へよっていった。
『そこで停船しろ。停船するんだ』
「碇もないのにどうやって」
土屋が呟く。強いサーチライト越しにヘリのディテールが見えるほどまでに近づいていた。
『停船しろ』
土屋はエンジンを止めた。ヘリは不規則に揺れていた。船は今までの勢いを失い、川に流されはじめていた。
「これまでね」
メイが言う。
言問橋前のヘリが姿勢を前に傾けた。こちらに来る。榊は思った。しかし突然ヘリは石のように川へ落ちた。
「エンジンを」
榊は叫んだ。弾かれたように土屋がスターターを引く。エンジンは咳き込んで止まる。もう一度。エンジンは息を吹き返した。
「橋の袂へ」
背後のサーチライトが動いた。残ったヘリは高度を取る。逃げるか?いや、そんなはずはない、と榊は思った。おそらく高度を取って応援が来るまで監視をするつもりだ。まだ終わりはない。
川に落ちたヘリの脇を通る。ヘリはゆっくりと沈みながら川に流されていた。コクピットに動きはない。しかし榊はパイロットの安否よりもヘリのローターが気になった。上下2段併せて4枚の羽が並んでいるはずなのだが、羽の数が足りない。上下とも1枚羽を失っている。整備不良か何かで羽が千切れたのか?‥‥まさか。
言問橋の上に人影を見たとき、榊は何が起きたのか判ったような気がした。橋の上の人影は水口だった。