アンダー・ウォーター
26.

 人口が流出し続けているとはいえ、山の手線の内側はまだ昔の面影を残していた。しかし、市街の代謝はとうに停まり、通りに並ぶ建物は建材が劣化するにまかされていた。その点ではここも水没帯と変わらない。
 榊は不忍池前で車を止めた。すぐ近くには半円のシェルを持つ集会場のような場所があった。その集会場から人影が3つあらわれた。車の方へ小走りに近寄って来る。
 〈耳〉が鳴った。
『データリサーチャーか』
「今不忍池の前にいる。――こちらに近づいてきているのか?」
『騅の43年型だな』
「そうだ。よくわかるな。この暗がりで」
『騅シリーズの特徴はリアシールドからトランクルームにかけての曲線にある。わりと好きなもんでね』
 人影が近づいてきた。レインコートを着ているのがシルエットで解った。3人のうち二人は歩道をそれぞれ上り、下り方面を見張るように離れていった。残る一人は騅の後ろを周り、運転席側に近づいてきた。それとなく車内を伺っている。
「今車内を覗いているか」
『そうだ――三人?子供がいないな』
「隠れている」榊は後ろを振り返った。「メイ。顔を出していいぞ」
 土屋がうめいて、目を開いた。メイがもぞもぞと土屋の脚の下から這い出すとシートに座った。
『彼女がサカキバラか』
「我々はメイと呼んでいるよ」
『なんとかここまで来れたか‥‥』
 シルエットが近づく。
「ライト‥‥」
 室内灯が点った。〈アリアドネ〉と思しき人物に光があたる。榊はその顔を見てはっとした。
「女か」
『チェンジャーを使ったんだ。別に驚くようなことじゃないだろう』
「そうだな」
 榊は車にドアシールドを降ろすよう命じた。
「本当にあんたにまかせるべきなのかな」
 榊は〈アリアドネ〉に向かって直接話し掛けた。
「どういう意味だ」
「あんた達は何者なんだ。誘拐業者か?」
「似たようなものかもな」〈アリアドネ〉は答えた。笑みも浮かべない。「あんたはフリーだそうだが、フリーのままでいるつもりか?」
「そのつもりだ」
 榊は戸惑いながら答えた。
「なぜ」
「さぁね。SPが肌に合わないんだろうな」
「〈特別行政区〉か」〈アリアドネ〉の目に激しい感情の色が宿る。「‥‥あんたはこの仕事でいくら貰うんだ」
「ただ働きだよ」榊は笑みを浮かべた。「知人に頼まれたんだ。こんなことに首を突っ込むとは思わなかったけどな」
「‥‥その娘のことは安心していい」〈アリアドネ〉の表情が心持ち和らぐ。「その娘は我々の手で新潟まで運ばれ、船で韓国へ渡る。その後は空路で統欧へ行くことになる」
 榊はルームミラーをちらりと見やった。土屋が熱心に聞き耳を立てている。
「統欧? そこに依頼主がいるのか」
「さあな」
 ルームミラーがまぶしく光った。車が近づいてくる。
「仲間の車だ。‥‥彼女を」
 榊は後部ドアのロックを外した。メイが自分からドアを開けようとする。土屋が手を伸ばし、メイの頭をなでた。
 メイは振り返り、そして微笑んだ。
「泣かないで」
 メイは囁くとドアを開けた。後ろの車から傘をさした人物が近づいてくる。
「〈アリアドネ〉」
 榊は呼びかけた。〈アリアドネ〉は傘をさした人物に注意を向けていたが、榊の方に振り向く。
「最後に、これだけは教えてくれ。彼女のことを〈希望〉といったな。あれはどういう意味なんだ」
 〈アリアドネ〉は暫くの間榊の顔をじっと見つめていた。
「簡単に説明することはできない。――系列各社はSPネット以外に重暗号化されたネットを作り上げている。RiPSにかぶさるように、だ。既存のハードやソフトではデコードするのは事実上不可能だ。だが〈生え抜き〉なら、アクセスし、デコードできる」
「どういう意味だ」
「文字通りだ。そのために〈生え抜き〉が作られたんだ。我々はそのネットワーク――〈オムニュビーク〉を解体したいと願っている」
「オムニュビーク?」
「自分で調べるんだな。リサーチャー。説明している時間がない。‥‥もっとも命が惜しければ首を突っ込まないことだ」
 その時すでにメイは外に出ていて、傘の下に入っていた。彼女は後ろを向き、榊たちから離れようとしていた。〈アリアドネ〉も騅から離れ、歩道に戻る。
 榊は外に頭を出してメイを見た。雨が顔に降り注ぐが榊は構わなかった。
「メイ!」榊は呼びかけた。メイが立ち止まり、振り向く。榊は次の言葉を探した。「何があっても‥‥」
『生き抜くわ』〈耳〉が囁く。榊はぎょっとした。『でも私はメイではないし、メグミでもナイ。‥‥サヨナラ、サカキ』
 メイが微笑んだ。榊は彼女を見つめるだけだった。メイは微笑みだけを残して歩み去った。後ろの車に乗込み、姿は見えなくなる。
 榊は頭をひっこめた。雨のしずくがシャツにたれる。
「あの子、どこに携帯端末を隠していたのかしらね」水口が言った。「ネット越しに『さよなら、ありがとう』だって。無愛想な子だとずうっと思ってた」
「メイはいい子よ」
 土屋が涙声でつぶやいた。水口がぎこちなく笑みを浮かべ、そうね、と応えた。
 あれは誰だったんだ。榊は〈耳〉の囁き声を思いだそうとした。メイの声、だったはずだ。だが、メイは携帯端末を持っていなかった。埋め込み? 有り得ない話ではない。あの小さい身体に通信機を埋め込んでいるというのだろうか。
 水口がタオルを榊の頭にかぶせた。
「シートがびしゃびしゃになるから、さっさと頭を拭いてよ」
 榊は現実に引き戻された。水滴が背中に入り込んでいる。榊は言われるまま頭を拭いた。メイを乗せた車が追い抜いていく。榊は頭を拭きながら走り去る車のテールランプを見送っていた。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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