アンダー・ウォーター
21.

 隅田川への水門に近づいている。土屋はエンジンのスロットルを絞っていた。速度は出ないが、注意を引かなければ速度を出す必要はないという土屋の考えだった。暗いので、危なくて速力を出せないという事情もあった。榊に異論はなかった。何より彼女は船頭なのだ。
 榊は背後に土屋の息遣いと舵を取る気配を感じていた。エンジンは心臓の鼓動のように規則正しい音を出していた。メイは榊の横で船縁から手を垂らしていた。時折水を掬い上げては手を払っている。その水音がいやに榊の耳についた。
「メイ‥‥本当に後悔はしないよな」
 メイは水面から手を引き上げ船縁に沿わした。榊の方を振り向く気配がする。
「するわけないわ。どんな変化も大歓迎よ」
「しかし、相手の正体は解っていないんだぞ」
「あなたの正体だって、わたしに言わせればうさんくさいわ」
 そう言って、鼻で軽く笑う。嘲りの色はない。榊は苦笑した。
「わたしにとっては、アリアドネの方があなたより現実味があるの」
「どういう意味だい」
「わたしたち生え抜きを欲しがっているのは、国内の他系列だけだと思う?」
 榊ははっとした。
「わたしたちが投入されるのは国内よりも国外なのよ。いわゆる〈外交社員〉としてね。わたしたちが誰かと交渉に入るとき、事前調査抜きということはありえないわ。交渉相手について調べ上げ、実際の交渉では相手のかすかな表情一つ見逃しはしない。わたしも後2、3年もすれば現場の人間になったはずよ。調査員としてね」
「そういう話は聞いている」
「‥‥わたしはとある外交社員夫婦の子供として送り込まれ、ホームパーティーに出席することになるわ。大人は子供に対して普通警戒したりはしない。それを利用して、できる限りの情報を収集する。相手の心理的な癖をね。あるいは、定例観察として。顔色の変化や、肉付きの変化、声の調子‥‥。相手の健康状態を把握することだってできる。他にも付与能力が‥‥」
「そしてエリートとしての生活」
 榊は遮った。
「当然の報酬ね」
「なぜ捨てられるんだい」
 メイは再び笑ったようだった。
「わたしには捨てることができるからよ。わたしは欠陥品なの。他の同期は捨てられるなんて思いもしない。そんな発想は光速の彼方よ」
「よく分からないな」
「人事部はわたしが〈生え抜き〉に約束された生活を捨てることができるということを知っているわ。それは、わたしが外交社員として不適格ということなのよ。外交社員には誘惑が多いから。つまり、競争相手や交渉相手に隙を見せるようでは困る。そんな社員は初めから国外に出さないわ。一生飼い殺しね。契約社員と同等に扱われる。しかし、〈生え抜き〉に備わった能力はそのまま。‥‥そんなの耐えられやしない。つまり、そういう刷り込みはうまくいってるのよ」
「しかし捨てることはできる」
「その刷り込みは効かなかったのね。人事部はそういう人材を信用しないのよ。他の刷り込みの効果もあやしいから。‥‥だったら、こっちから捨ててやればいい。そうでしょ?誘拐されたのはいいタイミングだったわ。巡り合わせなのかしらね」
 彼女の言葉は自嘲気味に聞こえた。
「あんまり寂しいことを言うもんじゃないよ」
 土屋が口を開いた。
「捨てるだの何だのって‥‥子供がそんな風に言うもんじゃない」
「わたしは‥‥」
「あんたは子供だよ。スネてるのさ」
 榊はメイのシルエットを見つめた。彼女はしばらく身じろぎもしなかった。
「‥‥あなたが羨ましいわ。土屋さん」
 メイはそう言ったきり口をつぐんだ。手が船縁から水面に降りる。
「どんだけ頭に詰め込んだってだめなんだよ‥‥」
 言い募りそうになる土屋を、榊は手で制した。
「黙って」
「あんた、ずいぶんこの子を庇うのね」
「いいから黙って」
 水をかきまぜていたメイの手が止まる。三人の耳に空気を打つ音が聞こえた。土屋がエンジンを停める。ローターの音は次第に大きくなっていったが、突然鳴り止んだ。榊は緊張した。ローター音を相殺し、隠密飛行に入ったのだ。ヘリは目標が近いことを意識している。水路に近づいたので音を消したのか、それとも不意を討つためか。
 光条が闇を開く。スポットが廃屋の屋根を舐め、壁を舐め、水面に達する。水面が反射する。榊はスポットが水面を滑るように近づいてくるのを魅入られたように見続けていた。視線を引き剥がすことができなかった。
 土屋がプルスターターを引き、エンジンを始動させる。その爆音が榊の呪縛を解く。サーチライトが船を照らした。榊は手をかざし、指の隙間からヘリを見た。強い光に隠れて、ヘリのディテールはほとんど判らない。しかし、その腹にぶら下がる棒状のものは見間違えようも無い。12ミリ機銃。たぶん軟弾頭弾。
「しっかり掴まっててよ」
 土屋が言う。小船が増速し、反動で榊は船底に倒れこんだ。

'Under Water'
Satoshi Saitou
Create : 1996.06.29
Publish: 2010.07.05
Edition: 2
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