土屋は船を堤防から水面に続く階段の横につけた。その階段はかつては川岸の遊歩道へと続いていたが、その遊歩道はいまや川底で泥とミズゴケに覆われている。榊は船から階段へ飛び移った。階段は半ば雑草で隠れていた。
メイが伸び上がり、榊は彼女を抱き上げた。
「土屋さん。あなたもこっちに」
「いや、あたしは船で‥‥」
「ヘリにマークされてるんだ。また川に戻るのは危険だ」
「でも船を‥‥」
土屋が口篭もった時、橋の上から水口の肉声が聞こえた。
「明ぁ!早くこっちへ。すぐに出さないと」
榊が声のした方をちらりと見ると、暗がりの中、水口が橋の上を走っているのが解った。さかんに手で橋の袂の方を示している。榊は土屋の方に視線を戻した。
「‥‥土屋さん。死ぬわけにはいかないだろ」
「あんたを信用するしかないわけね」
「選ぶのはあなただ」
「ずるい言い方すんのね」
土屋は階段に飛び移ると、舫い綱を雑草の束にくくりつけた。
「気休めね」
呟く。
「こっちだ」
榊は階段を登った。堤防の上は2メートル程の幅があり、そこが新しい遊歩道になっていた。堤防の内側はゆるやかな斜面が5メートル程下の道路まで続く。榊は堤防の上でメイを抱えたまま走った。橋の上にすでに水口のシルエットはなかったが、すぐ近くで車を出す準備をしているはずだった。
聞きなれた騅のエンジン音がする。下の道路を見下ろすと、騅が路地から出てくるところだった。榊はメイをしっかりと抱きしめると、コンクリートの斜面を立ったまま不安定に滑り降りた。土屋がその後に続く。
騅は榊の真下で止まった。運転席から水口が降りかける。
「ライトを消せ」
榊が短く叫んだとき、背後が急に明るくなった。白い斜面に影が延びる。
「早く!」
水口が叫ぶ。
榊は斜面を駆け下りた。脇を土屋が追い抜いていく。土屋はあっという間に斜面を走り降りると、勢い余って道路に転がった。榊はメイを抱えたまま用心深く斜面を降りきった。
「大丈夫か」
榊は脛をさすりながら立ち上がる土屋に声をかけた。平気よ、という土屋の返事を待たず、榊はメイを水口に預けて運転席に滑り込んだ。ライトとナビゲーションシステムを切る。全てのドアロックを解除する。
「早く乗れ!」
榊が叫んだ時、すでに水口は後部扉を開けてメイをシートに降ろしていた。その反対側では土屋が足を軽くひきずりながら車内に入ろうとしていた。
水口はメイを座らせるとドアを閉め、助手席に入った。
「奥様とお子さん?」
からかうように囁く。
「馬鹿野郎」
全てのドアが閉まったことを確認すると、榊はドアロックをかけ、アクセルを踏み込んだ。ライトは消したまま。水口が悲鳴に似た声を上げる。
「ヘリが照らしてくれてるよ」
榊は車を路地にいれる。土地勘は無く、そしてナビゲーションシステムは切ってある。榊はナビゲーションマップを表示させたかったが、騅が地域の交通管制局と交信することを考えるとそれはできなかった。
榊はただ自分の勘だけを頼みに路地を走らせた。ヘリのサーチライトが途切れ途切れに路面を照らす。ヘリは車を見失いかけているようだった。その想像が当たってくれればいい、と榊は思う。応援が来る前に撒きたかった。
榊は思い出したようにシートベルトに右腕を通した。横では水口が身体をねじって後部座席の二人に挨拶している。
「はじめまして。わたしは水口という者です。榊の助手です」
「あたしは土屋。この娘はメイ」
「短い間でしょうが、よろしく」
「こっちこそ」
水口は前に向き直った。
「あの娘、カシワバラ・メグミ?」
ルームミラーを気にしながら小声で言う。榊は軽く頷いた。ルームミラーの中で、土屋は不安気に窓から上を見上げていた。メイはシートの背をただじっと見つめているようだった。
「そうだ」
水口がメイの本名を知っていたことに、榊はあまり驚かなかった。
「じゃあ橿原が捜している子ね」
榊はただ頷くにとどめた。路地を曲がり、車を南に向ける。
「どうやってヘリを落とした」
「ブースターケーブルを羽にぶつけてやったの」
グローブボックスの中で呼び出し音が鳴った。水口が慌てた風も無く、ボックスからパッドを取り出すと膝の上に置いた。
「はい、水口です‥‥橿原さん。こんな夜更けになんでしょうか」
水口の指がパッドの上をなぞる。彼女は回線をブランチさせた。榊の受呼フィルムが振動する。榊は左手で乱暴に内ポケットから〈耳〉を引き出した。
『‥‥君こそこんな夜更けにどこにいるのかね』
「ブリッチさせてるか?」
榊の問いに水口は頷いて答えた。うっかり声を出すと、その喉の振動がスロートマイクに拾われてしまう。
「ちょっとしたナイトクルージングです。寝付かれないもので」
『それで羽田まで?ずいぶん剣呑なところに行ったものだな』
「なんでもお見通しなのですね」
『とんでもない。今、一体どこを走っているのかね』
「わたしはNTN保安部の情報収集能力を高く評価していたのですけど」
『我々は神の目を持っているわけじゃないさ』
サーチライトのスポットが車のすぐ鼻先を横切り、榊はひやりとした。
『榊と連絡がとれないだろうか』
榊は首を横にふった。
「‥‥残念ながら」
水口がさほど残念でもなさそうに答える。
『ふむ。どうもSP/GPの動きが慌ただしいのでね。‥‥いや、こちらの話だが。なるほど、連絡が取れないんじゃ仕方ないな。伝言を頼めるかな』
「なんでしょう」
『こちらはサポートする用意がある。あらゆる意味で、と』
「確かに承りました」
『それじゃ、よろしく』
回線は切れた。
「どう思う?」
「無視するさ」
榊がそう答えたとき、ルームミラー越しに土屋と目が合った。その目に不審の色があるのを彼は見て取った。しかし土屋は何も言わなかった。