彼女は窓際に立って外を眺めていた。
部屋は薄暗く、さっきまでクラッドたちといた部屋と同じようにどことなく黴臭かった。壁には細いひびが走っている。床にはダブルベッドサイズのマットレスが置かれ、その上に子供服が何着か無造作に広げられていた。椅子とテーブルがあるが、子供が使うには丈が高い。椅子はさきほど榊が腰掛けていたガススプリング式のビジネスチェアではなく、木製のかぼそい印象があるものだった。テーブルの上にはポットとコーヒーカップがあった。
榊は少女から少し離れた所で立ち止まった。おかっぱ頭。髪の先は肩より少し下まで伸びている。赤いジャンパースカートを着ていた。裸足にサンダル。むき出しの素足がずいぶん生白い。
「こんにちわ」
榊はそっと話し掛けた。反応は期待していなかった。土屋の話からすれば、彼女は社交性という言葉からほど遠い所にいる。
それでも少女は榊の言葉に反応を示した。彼女はゆっくり振り返った。榊はもう一度挨拶の言葉を投げかけた。
「こんにちわ」
榊の目を凝視しながら彼女は答えた。微笑んだりはしなかった。榊はこわばった笑みを浮かべる。
「どなたですか」
「ここの土屋さんの知り合いの知り合いだ。君とお話をしてくれと言われてね」
少女は答えず、つい、と視線を外すと、マットレスの方へ静かに歩いた。ぼすん、とマットレスに腰を降ろす。
「椅子を借りていいかな」
再び少女は榊の目を凝視する。不意に榊の耳に遠くで遊んでいるらしい子供の笑い声が流れ込んだ。潮騒に似た笑い声はすぐに引いてしまった。
「腰を降ろしていいかな」
榊は重ねて問い掛けた。少女の顔がわずかに上下する。榊は脚の細い椅子の背を掴み、引いた。こわごわと腰を降ろす。椅子は少しゆらぎながらも榊の体重を支えた。その間、少女はずっと榊を凝視していた。
榊はどう切り出せばよいのか迷う。
「さっき、土屋さんに君の話を聞いてね。どうやら、君が記憶喪失にかかっているらしいので、何か記憶を取り戻せる手助けができるんじゃないかと思ったんだ」
少女は答えず、相変わらず凝視し続けている。榊の表情全てを見逃すまいとしているように。
「昔のことで何か覚えていることはないのかい」
少女が不意に微笑んだ。部屋の中に日がさし込んだようだった。榊は緊張から解かれて、自然と笑みを浮かべていた。
「なんという名前なんですか」
彼女が訊いた。
「榊だ。君の名前は」
「どんな仕事をしているの?」
「データリサーチャー、と言ってわかるかな」
「わたしの身元を調査するの?」
榊はぎょっとして彼女を見つめる。少女は相変わらず微笑んでいる。
「どこで仕事してるの?」
榊は少女がただの好奇心で訊いているのではないと確信した。
「フリーだ。それとこれは仕事じゃない」
「フリーってどこ?」
「どこの系列にも属していないってことだよ」
榊は半信半疑のまま答えた。少女は本当に知らなくて問い返したのか、それとも反問は偽装なのか。
「僕のことはもういいだろう。今度は君が話す番だ」
「何を」
「まずは名前を教えて欲しいな」
少女は相変わらず微笑んでいた。
「なんで?」
「なぜ教えてくれないだい」
「なんでわたしの名前を知りたいの」
「手がかりが何もないから」
「わたしの身元調査をするの?」
榊は椅子から立ち上がると、少女に近づいた。彼女の目の前でしゃがみこむ。「君は何者だ。迷子なのか、家出人なのか、犯罪者なのか。私をここに連れてきた知り合いは、君が土屋さんを面倒に巻き込むのではないかと心配している。そうなのか」
少女は戸惑いの表情を浮かべる。
「君がどういう理由で銀座を歩いていたのか、それについては今は訊かない。ただ、こうして出会ったのも何かの縁だ。いちいち『君』呼ばわりするのもわずらわしい。だから、せめて名前を教えて欲しい。君はどういう名前で呼ばれていたんだ」
少女の「微笑み」が崩れた。口元の笑みは浮かべたまま凝視する。榊はぞっとした。表情が分裂しているように見えた。
「わたしはメイ」
本名なのか?榊は反射的に考えていた。しかし、それが偽名でも、とりあえずは彼女から情報を引き出せたのであり、そのことで満足すべきだろうと榊は思った。
メイは表情を消し去っていた。
「それじゃあ、メイ、君のことを教えてくれないかな。どんな所に住んでいたんだい」
彼女は答えなかった。榊を凝視している。
「YSP?」
メイの表情は消えたままだった。榊は大袈裟にため息をついて見せる。
「土屋さんがああ言わなかったら、TYISPに渡しているところだよ」
それでも彼女の凝視は変わらなかった。
榊はようやく気が付いた。榊はメイから何らかの情報を引き出せたわけではないかった。逆だった。情報を引き出されたのは榊の方だった。榊は自分の名を教え、職業を教え、そしてこれが仕事ではないことを教えてしまっていた。榊は彼女との間で信頼関係を作るためにいろいろと話したのだが、メイにそんなつもりは無かったのだ。彼女は計算づくで榊に話すように仕向けたのだった。
だが榊には、そのことが手がかりであるように思えた。