タエコは痛々しいほどに落ち着いていた。膨らんだ風船に針が突き立てられようとしている瞬間写真のようだ。あと少しで破裂する。
考えさせないことだ。余計なことを考えさせない方がいい。
「HQは何て。うちのハンドラーは何か言ってきた?」
「弁護士が警察に行っているそうよ。それとうちの統括長がHQに呼ばれたって」
「弁護士が着いたのなら、警察も乱暴なことはできないわ」
「‥‥そもそも、捕まるようなことしてないはずなのよ」
「そうね。そこらへんの事情が全然解らないものね」
チョコレートコートのミルフィーユをペティフォークで裂く。ミルフィーユは細かい生地が散らばるのであまり好きではない。
「‥‥ごめん。お茶があれば欲しいわ」
「気が付かなくて」
弾かれたようにタエコは立ち上がり、給湯室へ向かう。廊下から声が続く。
「でも紅茶は切れてて、緑茶しかないんだけど。あなた、緑茶飲めたっけ」
「平気よ」
給湯室から物音が伝わってくる。その音に耳を傾けながら、何か妙なノイズが聞こえることに気付いた。サングラスだった。つるを折りたたんでテーブルに置いてあるサングラスが呼び出し音を鳴らしている。
慌ててかけた。
「こちら209」
『01から209。ヨコハマHQの警備事業部の秘書室に顔を出していただきたい』
「209から01、今日は休みなんだけど」
『209、残念ながら取り消しだ。HQCOO秘書室からのオーバーライド。緊急要件とのこと。必要ならリムジンをよこすと言ってきている』
「209から01。了解。観念したわ。出迎えはいらない。こちらから行くからそう伝えて」
『01から209。以上だ』
回線が閉じた。タエコが盆に湯飲みを2つ載せて戻ってくる。
「誰と話してたの」
「ハンドラー」
「なんだって」
タエコが盆を置いて、湯飲みを差し出す。それを受け取りながら答える。
「キングズコートに顔を出せって」
「また? 平戸に関係するのよね」
「見当もつかないけど、タイミングとしてはそうかもね」
「でもなんで葵が」
「本当よね」
緑茶をすする。わずかに音を立てて飲むやりかたは最近身に付けた。
「まぁ、平戸と関係があろうとなかろうと、なんかしら情報をもらえるかもしれないから、行ってくるわ」
「そうね。こういうことは待つしかないと解ってても、何も知らないでいるのは辛いものね」
「どこまで解るか、あまりあてにはしないで」
「いいのよ。‥‥ケーキはちゃんと食べてってね」
ケーキのカロリーを消費してキングズコートへ。呼ばれる理由は何か、なんとなく見当はついている。平戸というよりは、むしろ鏑木の件だろう。警備部は警告だけ与えて安心するようなお人好しではない。もしかしたら鏑木も監視しているかもしれない。‥‥しかし、そこまでするだろうか。
エレベーターを降りて受付に行くと、そこにはチャンが待っていた。
「HQCOO秘書室に呼ばれたのだけど、そちらでいいのかしら」
「待ってましたよ」
チャンはにこりともしない。あまりいい話ではなさそうだ。
「こないだの部屋で?」
「いえ、もう少しマシな部屋で。――こちらです」
チャンは前回使った部屋よりも、より受付に近い部屋に案内した。内装もしっかりしていて、安くない雰囲気の部屋。ただし、窓がなかった。
低い黒檀のテーブルをはさんでソファに腰を下ろす。
「平戸のことで何か聞いてますか」
チャンは渋面を作った。
「弁護士をやってます。どうやら、彼はハメられたらしい」
「嫌疑はなんです」
「不法侵入です。警察に匿名で不法侵入の通報があり、警察が到着する寸前に平戸は現場に到着した。現場は荒らされていて、任意同行を求められた」
「コールはあったのでしょう」
「当然あった。ミスコールが。警察はそのミスコールを疑っています」
「でっちあげ、ということですか」
チャンはうなずいた。
「平戸自身が何らかの手段でコールを擬装し、パラメディックとして現場に侵入する。何しろ、うちが警備しているところならフリーロックだ」
「そちらの警備対象施設だったんですか」
「一応。ただ、侵入警報はなかった」
「そのことは警察には」
「そんなことをすればやぶへびになります。警報があれば、平戸以前に賊がいたことになる。そうでしょう。もっとも、遅かれ早かれ、うちにも訊かれるでしょうがね」
「それじゃあ、平戸の嫌疑が晴れるのは」
「もう少し気長に、というところですね。彼との交信記録を保険事業部から貰っています。それが唯一の彼のアリバイですよ。平戸自身がバカな気を起こさなければ大丈夫でしょう」
その意味はわかった。
「‥‥彼自身が認めてしまったりしない限り、ですね」
「そういうことです。自白至上主義なんて時代じゃありませんが、やっかいなことになるでしょう。まぁ、弁護士が接見しますから、そのあたりは」
チャンはそこでふと微笑んだ。
「休みの日をつぶしてあなたを呼びつけたのは、このことじゃあないんです。ただ、関連はありそうですけどね」
「山手署の刑事のことですか」
「ええ、そうです。いえ、刑事との接触についてどうこう訓告めいたことを言うつもりはありません。向こうから接触してきたことはこちらも把握しています。わたしが知りたいのは、今日、刑事はあなたに何を伝えたのか、ということなんです」
「やはり監視はあったんですね」
「ええ」簡単に答える。「気を悪くしないで欲しいのですが」
「予想はしてましたから」
「ドローンによる遠隔監視です。屋外での行動はわかりますが、それ以上のものは。サングラスが生きていれば、それを使いますが」
「刑事も監視を警戒していたようですね」
「同業者ですからね。――それで、彼はなんと」
会話の内容を思い出し、伝える。大したことは話していないように思う。ただ、鏑木の物言いが秘密めかしていたのは確かだ。
「‥‥妙なものを手に入れた、と」
チャンは独りうなずく。
「それが何かは言ってませんでした」
「おそらくこちらの耳を警戒したのでしょう。あるいは本当に勿体つけたかっただけか」
「わたしはどうすれば良いのでしょうか。むこうの意向に従っても」
「時期が時期だけに、パラメディックと警官の接触はあからさまに怪しいのですがね。‥‥先方もそうしたリスクを負っているのかどうか」
何のことだろうか。リスクとはどういう意味だ。
「‥‥結局、その刑事の真意次第ですね。ただ、接触しないことには知りようもない」
「では」
「虎穴に入ってもらいます。英語では虎の尾を踏む、と言うんでしたっけ」
「いまどきそんな言い回しをする人なんていませんよ」
「そうですか」張は苦笑する。「ま、ともかく、向こうの誘いに乗ってください。もちろん、こちらの意向で動いて頂く訳ですから、特別手当てを上乗せするようにします。業務指示の切り替え諸々はこちらでやります」
「悪い話ではないわね」
意識しているのかいないのか、チャンはにやりと笑う。
「ただ、平戸の件もあります。画像情報は常時送ってください。そちらのハンドリング部門には伝えておきます。それと、我々も立ち合わせてもらうかもしれません」
「と、いうと」
「真意を確かめてみたい、ということですよ。今はまだ実際にそうするかどうか、未定ですが。そんなところです。あなたも覚悟しておいたほうがいいかもしれません」
何を、と訊き返すのは無駄だろう。