日勤者の勤務時間はとうにすぎ、夜勤担当のクリスがすでに事務室にいたがタエコは残っていた。事務室の片隅にはささやかな対のソファと小さな机からなる応接セットがある。別名お茶セットとも呼ばれていたが、そこで桜とタエコを相手に平戸の件について話した。クリスは事務机から離れなかったが、話だけは聞いているようだった。
タエコは動揺する様子も見せず最後まで聞いていたが、聞き終えると洗面所に行くと言い残して事務室を出て行った。クリスも立ち上がり、タエコに続いて出て行ったが、すぐに戻ってきた。盆にケーキを3つ載せている。
「ミナト屋で買ってきてたんですよ。ナイトリーシスターズにと思ったんですが、まぁ、どうぞ」
「かしまし娘にケーキなんてやるこたないのに」
と桜。ナイトリーシスターズというのは夜勤シフト専門の女性パラメディック3人のことだ。
「こないだ夜食を奢ってもらったんで、借りは返しておかないと」
「確かにそれは怖いわね」
クリスは統欧のデンマーク地方出身だ。彼は交換留学生で、昼過ぎに大学の研究室に顔を出すという、いいご身分についている。だから夜勤のバイトも勤まる。彼は午後6時から午前3時まで事務室にこもり、午前5時から正午頃まで眠るのだという。
事務職は暇で、しかも夜となれば話し相手も殆どいない。おまけに娯楽施設は無い。若いクリスに耐えられるものかと思うのだが、彼のエネルギーはレポート作成に費やされている。彼の専攻は保険社会学とかいうもので、このバイトは一石二鳥ということになる。もちろんクライアントのプライバシーに接するため、大学に提出するレポートは事前に会社にも提出することが求められている。つまり、この富士見PSに詰めているパラメディック達がチェックしなければならない。その過程でまた学業に有益な知見を得られるというわけだ。交換留学生に選ばれる学生というのはさすがに頭が良い。骨までしゃぶられそうだ。
クリスがケーキを載せた皿を前に置こうとした。
「わたしはいいわ。昼間食べたし。あなたが食べればいい」
「僕が?」
「ケーキが1つ残っていたらナイトメリッシュシスターズに気付かれるでしょ」
クリスはふきだした。桜はケーキを小さなフォークで口に運ぶ。
「まぁまぁね。コーヒー欲しいな。砂糖たっぷり」
「パラメディックやめたら太りますよ」
「その頃には誰も気にしなくなってるわよ」
クリスはタエコが座っていた場所の前にケーキを置いて、残る1つは自席に持っていった。
「柊さんは? コーヒーどうします」
「貰う。でも砂糖抜きでいいわ」
「低血糖で倒れないでくださいよ」
「おおきなお世話よ」
クリスと入れ違いにタエコが戻ってきた。案の定、目が赤い。そんなに心配することはないと言い聞かせても無駄だろう。こういうことは当事者にとって理屈ではない。ずっと感覚的なものだ。トロントで何度となく見てきた。
「落ち着いた?」
タエコはうなずく。桜がそっけなくテーブルの上のケーキを示した。
「食べなよ。クリスが気ぃ利かせてくれた。今コーヒー入れてくれてる」
「わたし紅茶の方が良かったな」
それを聞いて桜は軽くうなずくと身を大きくそらし、事務室の戸口に向かって叫んだ。
「クリスぅ。タエコは紅茶だって」
「もちろん」
大声が返る。
「向こうの男はデキが違うよね」
桜の呟きを聞いて苦笑する。そんなことはない。どこでも一緒だ。つまり、一様にデキは悪い。
「結局、警察はしっかりとした証拠を持っているわけじゃないみたいだから」
「でも」
「状況証拠というやつよ。現場にいたから」
「なんかハメられたみたいね」
桜の言葉にタエコは目を見開いた。しかし、それは当然推測されることだ。でも、誰が、何のために。平戸をハメて誰が利益を得る?
「なんで、そんなこと」
「ごめん。ただ言ってみただけよ」
タエコは桜を睨む。ケーキを一口。
「でも、まだ、そのほうが気が楽よね」
「なんで」
「真犯人を挙げればいいわけでしょ」
「それってストリームの見すぎ。見分けがつかなくなってる」
「葵はどう思ってるの?」
突然訊かれて戸惑う。思うも何も、事実関係の調査もせずに解るはずがない、と元警官の自分は答えている。でもその答えはタエコを不安にさせるだろう。
クリスが盆にティーカップやらマグやら載せて戻ってきた。盆からコーヒーマグを直接取る。いつものインスタントだ。
「話がうますぎるのは確かよね」
こんなこと言ってしまっていいのだろうかと思う。3人が注目している。
「部屋が荒らされ、警察に通報がある一方でコールも出ている。平戸が現着した直後に警察が到着。警察は窃盗容疑でそのまま任意同行を求めた。コールそのものはミスコール。桜の言うとおり、ハメられた感じがするわよね」
「でも、なんで‥‥」
タエコにうなずく。
「平戸をハメる理由がわからない。警察にやっかいになることが致命的なダメージになるほど奴に社会的地位、ってのがあるわけじゃないから」
「狙いは平戸さんじゃないかもしれませんよ」
クリスが不意に言った。
「別に誰でも良かったのかも」
「どういうこと」
「実際に逮捕されるにしろ、誤認であることが明らかになるにしろ、このことがストリームに流れれば、パラメディックコールシステムの信頼性が疑われる」
「なるほど」
タエコはきょとんとしている。桜は飲み込めたようだ。
「問題はパラメディックが疑われたことではなくて、ミスコールが発生した事実ということね」
「通報システムがあてにならないとしたら、魅力は半減です。一般救急でも同じになってしまう」
「‥‥それじゃあ、誰が?」
「それは、解りません」
タエコを安心させるつもりで話をそらしたつもりが、こっちが不安になってしまった。我々のパラメディックシステムの信頼性を落とすことが目的なら、それはつまりJ&Cが標的ということだ。会社間の抗争? 発覚すれば仕掛けた側は即座に破滅だ。そんなリスクを負うものだろうか。
「ああ、でも、ただの憶測ですから。憶測」
クリスが言う。
頭の良すぎる人間は、ときどきやっかいな存在になる。あんなことまで言ってくれなくてよかった。
「迷惑な話だよね。ったく」
桜が言う。