偽装
15.

 その数字は電話番号ではなかった。ゼロで始まってはいない。こんな事情でなければHQにいる知人に知恵を借りるところだが、それはできなかった。その数字の正体に気づいたのはフラットに戻った時だった。建物のエントランス脇に礎石があり、そこに12桁の数字が刻まれている。
 あの数字は地番かもしれないとその時思いあたった。住所が数字にすべて置き換えられることなどすっかり忘れていた。手紙や小包にはあまり縁がない。
 その数字が示しているのは、示しているかもしれない場所は、根岸湾を囲む埠頭の1つにあった。京浜埠頭の先、廃工場の群れが長いこと再開発を待ちわびている地区。といってもまったくの無人地帯というわけではなく、それなりに住人はいる。大規模な団地地区がすぐ近くにあり、そこでは積極的な警備監視が行われている関係で、埠頭の方もそれなりに治安が確保されている。
 鏑木はなぜあの数字をわたしに渡そうと思ったのだろう。なぜ同僚ではなく、いわば商売敵ですらあるパラメディックに渡そうと思ったのだろう。その理由が、彼の撃たれた理由でもあるのだろうか。鏑木は警察そのものも敵にまわしていたのかもしれない。だとすれば彼がわたしに接触してきた理由もわかる。敵の敵は味方。
 しかし、あまりにも安物の陰謀話めいている。腐敗した警察機構に立ち向かう正義感あふれる孤独な刑事──? まさか。
 思い切ってそこまで出向いてみることにした。12桁の数字が地番であると決まったわけでもないので、いきなり電話をかけることはためらわれたし、電話は監視下にあるかもしれない。
 埠頭は、富士見PSとはちょうど反対方向にある。距離は倍以上だが、対したものではない。本牧の丘を下りてしまえば、あとはずっと平地が続く。近いのは根岸台の公園脇を抜ける道を使うことだが、このルートはアップダウンがある。それよりは遠回りになるものの一旦山手公園側にまわり、公園の真下から本牧原をまわって磯子に抜ける広い道路を使った方が走りやすいだろう。

 あいにくの曇天で、海からの風は厳しい。根岸森林公園を過ぎると丘は急傾斜で落ち込んでいく。その斜面に幾つかのコーポラティブヴィレッジを構成する白壁の住宅がびっしりと建ち並んでいた。小さな〈村〉の群れは湾岸線と根岸線を境界に区切られ、さらに海岸よりのかつては製油所だった埋立地は緑深い公園と中層マンション群が並ぶ。
 落ちるように坂を下りていく間、建物の間から横浜港の海が見えた。海は重い色をしている。
 坂を下りきり、湾岸線と根岸線の高架をくぐり、そのままベイサイドの新居住区を結ぶ環状路に出る。プレジャーボートやヨットが並ぶ根岸マリーナを横目に横風のきつい文字通りの湾岸を鳥浜マリーナへ走った。
 比較的新しく手が入った土地のせいか景色が垢抜けて見えていた。古くからのしがらみが街並みにしみ込んでいるような富士見町周辺の景色とは一味違う。このあたりを管轄にしているパラメディックがすこしうらやましい。
 しかしその真新しい景色も新杉田までだった。ストリームソースを切り替えたように景色が一変する。根岸から新杉田まではその一帯をまとめて占有していた重工業大手企業が撤退したために大規模な都市再開発が一気に進んだのだが、その先となるとまだ再開発の手は届いていない。大岩のような資本が山手側に投下されたが、その波紋はまだここまで及んでいないということなのだろう。今は道路がようやく整備されたところという雰囲気だ。更地のまま放置されているような土地が虫食いのように広がる。
 寒々しい。
 左手に寂しい鳥浜マリーナ。海を挟んで磯子の発電埠頭。その向こうにマンションの群れ、本牧の丘。
取引時間をとうにすぎてがらんとした卸売市場の脇を通り抜けると、16桁の地番が近い。目的と思しき場所には取り残されたような倉庫が建っていた。周辺が更地になっている中で存在を主張している。
 自転車を降り、「広域避難所」の方角を示すポールにワイヤーで留めた。高波が来るのでない限り、この場にいるのがどこに避難するより安全だろう。
 ジャケットのポケットからサングラスを取り出しいつものようにかけようとしたが、やめた。何かはっきりとした理由があったわけではない。ただ、この場所にいてHQのヒモつきになることには抵抗があった。
 風の音しか聞こえない。車の走行音も信号機が誘導する声も聞こえなかった。
 倉庫に近づくと食欲をそそるにおいが漂ってきた。そのにおいだけが、この場所に誰かが生活していることを教えてくれる。生活を感じさせるものは他に見当たらない。倉庫は放っておいても朽ち落ちるように見えるほど荒れていた。正面の扉にペンキ書きされた「鳥浜倉庫」という文字はかろうじて読み取れる。
 扉はわずかに開いていた。

 丸腰で来るような場所ではなかったかもしれない。ここまで来て自分の軽率さを呪った。表から覗き見える倉庫の中は薄暗く、雑多なものが積み上がっているように見え、待ち伏せに容易な場所ということはすぐにわかる。
 しかし、何を待ち伏せている? 別にDEAの捜査官として踏み込もうとしているわけではないのだ。待ち伏せするくらいなら、こちらが自転車でやってきたことも知っているだろう。サポートは無い。制圧するつもりなら、待ち伏せする必要もないだろう。
 ‥‥わざわざ制圧される危険を冒すこともない。
 脇に回りこむ。ホワイトソースのにおい。シチューだ。事務所かなにか、人が暮らすための部屋がある。部屋があれば入口がある。もしかしたら倉庫の中にあるかもしれないが、忍び込むのは呼び鈴を探してからでも遅くはないだろう。
 乾いた土くれを踏む。コンクリ舗装の残骸が残っていた。周辺の建造物はすでに引き剥がされていて、この倉庫だけが取り残されている。冷たい風、遠くに見える灰色の海。詩情も何も無く、ただ寒々しいだけ。
 階段があった。鉄骨のユニットで建屋の外にむき出しになっている。錆止めのペンキも色あせて、ところどころ浮いていた。踊り場もなくまっすぐに上の事務所に続いている。部屋に明かりは無かったが、シチューのにおいは強い。
「何か御用ですか」
 背後から声をかけられる。振り返ると探るような視線。ハイティーンらしき少女がいた。漆のような黒髪が肩口で切り揃えられている。ベージュ色をした薄手のコートにマフラー。胸の前に紙袋を抱えている。手には擦り切れた毛糸のミトン。
 わたしは地番を口にした。
「‥‥というのはここかしら」
 少女はちらりと階上に目をやる。
「そうですが、御用は」
「人を探しているの」
 わたしは腰の後ろに手をまわし、ランバーザックのポケットからプリントを抜き出した。鏑木が撃たれた夜、わたしのサングラスが捉えていた画像記録から印刷した。少女に見せる。
「知らないわ」
 少女はわたしの横をすりぬけ、階段を登る。
「この人は撃たれたの」
 足が止まった。
「鍋を火にかけたままなのよ。話は後で聞くわ。そこで待ってて」
 寒いが仕方無い。相手の機嫌を損ねるのは得策ではないだろう。少女は事務所らしき部屋に消えた。何か部屋に動きがあり、しばらくして少女は顔を出した。こちらをじっと見つめる。やがて口を開いた。
「いいわ。入って」
 その言葉に甘えさせてもらう。

'Camouflage'
Satoshi Saitou
Create : 2002.10.02
Publish: 2011.01.27
Edition: 2
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