偽装
14.

 照明が暖かい色をしている。薄くオレンジがかった壁。フローリングの表面をコートした廊下。隅には背の高い観葉植物。「手を洗いましょう/うがいをしましょう」のポスター。受付のシャッターは降りていて、中は覗けない。誰もいない。
 昼間は患者や見舞い客であふれている横浜救急センターのロビーだが、今は忘れられたまま放っておかれている映画のセットのようだった。主役がいない。
 身体が重かった。体重が倍になったような気がする。ロビーの奥にあるこの長椅子から立ち上がることができない。
 首をめぐらすと奥まで続く廊下を見通せる。廊下の照明は落とされていた。非常口を示す緑色のディスプレイが瞬いていた。
 廊下の角からチャンが姿をあらわした。両手にそれぞれ紙コップを掴んでいる。頼んだわけではなかった。
 チャンは何も言わず、隣に腰を下ろすと紙コップを差し出した。黙って受け取る。手が震えていた。中にはホットコーヒーらしきもの。チャンはコーヒーを啜った。
「命に別状はないそうです」そしてまた啜る。「今山手署の人間が来ました」
「何か訊かれましたか」
「何も。保険屋だと思ったようで。追い出されました。すぐに事情聴取があるでしょう。唯一の目撃者ということになっていますからね」
 こちらの視線に気付き、チャンは苦笑した。
「我々はフォローしていました。状況は把握しています」
「監視していたなら、なぜ」
「物理的な実行力の配備が間に合わなかった。こちらの追跡チームは大通りでは尾行できていたんですが、あの路地付近でうまく引き継げなかった。隙ができました。こちらの非です」
「侘びなら鏑木刑事に」
「しました。済まながっていましたよ」
 意外だった。何を?
「あの刑事は今度のことを半ば予想していたのではないかという気がしますよ。全てを聞いたわけではないんですが。その余裕がなかったもので」
「撃たれることを予想していた」
「彼の行動はどうも妙です。今夜の行動も私的なものだったらしい。山手署の人間はあの刑事の行動をよく把握できていないようでしたね」
「‥‥訊かれたら、わたしはどう答えれば」
「職務質問をされたとき、撃たれたと。その映像記録はあるし、実際そのような密会だったわけですし」
「密会ですか」
「警察関係者とその仇敵関係にあるJCのエリアパラメディック。密会でしょう。あの状況は。ただ、山手署には職質だったと言っておけばいい」
「何を訊かれたことに」
「あなたは経験者でしょう」チャンは小さく笑った。「警官が訊きそうなことぐらい思いつくんじゃないですか? それは任します。こちらはパラメディックと解る格好をしていたんですから、それほどおかしな質問はしないでしょう」
「ボロを出すかもしれませんよ」
「銃撃されても動揺せずに救命活動できる人がですか。それだけ肝が据わっていれば大丈夫ですよ。何かボロを出したら、あなたが動揺していたことにでもします。手も震えているようですね」
 苦笑するほかなかった。チャンは立ち上がった。
「そろそろ山手署の刑事が顔を出すでしょう。わたしは消えます。後は任せますが、いざとなれば弁護士をつけます。サングラスを忘れないように」
「そういう心配はしていません」
「部下に欲しい人ですね。‥‥柊さん。あの刑事が撃たれた理由に心当たりは」
 答えるのに戸惑った。
「いいえ。強いてあげれば、今夜のことなのでしょうが」
 鏑木刑事を抱きとめた時の重さが蘇る。彼の血の匂いを。その熱を。
「‥‥身辺に注意してください。それじゃ、これで」
 そういい残し、答えを待たずに廊下を奥に向かって歩き出した。夜間入口がそちらにある。

 この国の警察官による事情聴取のスタイルには馴染みがあった。誰に聞いたのかは忘れたが、警察には3つのタイプがあるという。1つは市民に対して高圧的に接するタイプで、つまり警察が国家の暴力装置として機能しているもの。もう1つは市民に対するサービサーと自認するタイプで、つまり護民官のようなもの。のこる1つは忘れてしまった。
 トロントで警官をやっていたとき受けた研修に、市民への接し方というのが含まれていた。ソフト対応という奴だ。嫌疑をかけるに相当しない市民に対して、威圧的に接しないこと。市民に親しまれる警察というイメージを作るという目的もあったが、それ以前に自分達の身を護るという意味もあった。不用意に高圧的に接してしまい、後で訴えられるケースは稀ではなかったのだ。
 山手署の刑事2名は、トロント時代のマニュアルを連想させた。控えめな笑顔はわざとらしくはなく、どこかシャイな印象を与える。態度も紳士的。そういえば鏑木刑事も同じだった。二人は立って、こちらを見下ろしていた。
「‥‥それで、鏑木は、なぜあなたを呼び止めたんでしょうか。彼は今眠っていて、事情が何も」
 40代半ばという雰囲気の刑事が訊いた。彼女はほんの微かに香水をつけていた。
「窃盗か何かじゃないんですか」
「窃盗、ですか」
 二人とも意外そうな顔をする。次に来るセリフは予想がついた。
「なぜ、そう思われたんですか」
「あのあたりでひき逃げ事件のようなものはありませんでしたし。目撃者を探しているようでしたからね。事故絡みでなければ窃盗じゃないかと」
「事件でないと、なぜ」
「うちはパラメディックですよ。刑事さん」微笑む。あざわらったように見えないよう注意する。「あの付近で刑事絡みになるような事故があったかどうかは解ります。ないのなら、怪我人も死人もいない」
 二人は少なからず失望したようだ。こちらが期待するような反応をしなかったということなのだろう。
「それで、具体的には何を」
「何も」
「どういうことです」
 若い――鏑木刑事より年下に見える――残念ながら微妙にハンサムではない刑事が訊いた。今の答えが気に入らなかったようだ。
「具体的な話になるまえに、ああいうことになってしまって」
「ああ‥‥なるほど」
 チャンが言うように、確かに彼らの対応は妙だった。
「なんだか、妙ですね」そう言ってやる。「撃たれた時の様子については何も訊かないんですね」
「それについてはJCさんから映像の提供がありまして、だいたいの様子は解っているんです。それとこちらにも鑑識がいますし」
 ではこの二人は何を探しているのだろう。
「何をお知りになりたいんですか。言ってもらえれば、それがきっかけで思い出すかもしれませんよ」
「いえ、だいたいの様子は解りましたから」
 二人は攻守が入れ替わったことに気付いたようだった。
「お邪魔しました。もしかすると後日またお話をお伺いに来ることがあるかもしれません」
「警察のお仕事がそういうものだということは承知しています」
「ご協力ありがとうございました。では、これで」
 踵を返し、廊下の奥へ。小声で何事か交わしているが、さすがに聞こえはしなかった。
 わたしはすっかりぬるくなったコーヒーを飲み干し、そして、手の震えが収まっていなかったことに気付いた。彼らは気付いただろうか。たぶん気付いただろう。それを見に来たのかもしれない。
 しかし今更そんな心配してもはじまらない。あの刑事たちは自分達が来たい時に現れるだろう。それは別に構わない。警官というのはそういうものだ。気に入らないのは自分の置かれた状況が全然解らないことだ。自分が踏みつけたものが虎の尾なのか、それともただの根っこなのか、見当もつかない。今のこの状況は気に入らなかった。
 欠伸を一つ。上着の袖口に目を落とすと、時刻表示は零時をまわろうとしていた。このロビーは居心地が良すぎてうっかりすると眠ってしまいそうだ。
 足元に置いたランバーバックを持ち上げて膝に載せる。中の荷物を整理して背負いやすくしておく必要がある。重量のバランスを取るのだ。
 ジッパーを引いてバックを開く。中に手を突っ込み、荷物を整理してストラップバンドで固定していく。幾つかゴミもある。現場で開封した滅菌シートのパッケージなどだ。重量的に大したことはないので、放っておく。富士見PSに戻ったら生分解させればいい。
 底の方に血に染まった紙切れが落ちていた。最初心当たりがなかったが、やがて思い出した。鏑木に断熱フォイルをかけた時、彼が握っていたものだ。あの時はタグだと思ったが、違う。折りたたまれている。
 開いてみるとそれは警察の事務連絡に使われたプリントペーパーらしい。募金のためにサニタリーティッシュを一口一箱いくらで買ってくださいとかなんとか。あの男がなぜこんなものを握りしめていたのか解からなかったが、隅の余白にペンを使って走り書きがあった。12桁の数字。
 裏返したが、裏には何も表示されていなかったし、何も書かれてはいない。改めて表に返す。
 おそらく鏑木の手によるであろうメッセージを見つめる。
 12桁の数字。
 鏑木は自分が撃たれることを予感していたのかもしれない。

'Camouflage'
Satoshi Saitou
Create : 2002.10.02
Publish: 2011.01.27
Edition: 2
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