目覚めの瞬間は、水中からのゆるやかな浮上に似ている。曖昧とした感覚は、眠りから微睡み、そして覚醒へと移行する中で、次第に意味を取り戻していく。自分の下にあるシーツの感覚。肺に流れ込む冷えた空気。タイマー起動しているニュースストリームのボリュームを絞った微かな音。
微睡みから覚醒は一瞬のことで、その時、五感の全てが意識される。その薄い膜を突き抜けてしまえば、もう眠りに戻ることはできない。
あきらめて生ぬるいブランケットの下から冷えた空気の中に身を移す。それでも目は開けない。ベットの縁から腕をおろして、手探りで床に転がった時計を探す。指が慣れた形を探り当てた。掴んで、持ち上げる。薄目を開いて時刻表示を見た。午前7時半。
ベッドの上に身を起こした。その動きを捉えてニュースストリームのボリュームが上がる。ベッドと反対側の壁にかかっているパネルに目をやると、どこかの会場の景色が映っている。アジア環太平洋地域経済会議(APAREC)の開催日が近づいているというアナウンス。会場は新横浜。そのまま天気予報に。
ぼんやりと過去24時間の天候実況と今後48時間の短期シミュレーション映像を眺めた。気象シミュレーションはローレンツの呪いをいまだ克服できていない。北京の蝶については知らないが、今の気象シミュレーションがだんだんと誤差を蓄積していき、時間が経つほど気象実況とずれていくものだということは知っている。
今日は晴れだ。夜明け前から晴れ渡っていたとすると、おそろしく底冷えする朝だろう。窓越しに臨海区の高層ビル群が見える。空は乾いた青一色で、雲ひとつ見えない。
ようやくの思いでベッドを抜け出し、足を揃えて床に立った。そのままゆっくりと身体を屈伸し両腕を伸ばして、指先で樹脂パネルの床をなでる。腰骨が伸びて小気味良く鳴った。
晴れというのはとりあえず良い知らせだ。今度は身体を伸ばし、左手で右の肘を掴んで上半身を左にひねる。次いで右手で左の肘を掴み、右にひねる。身体の血行が戻り、だんだんと暖かくなってくる。
この天気だ。休みなら良かった。
壁掛けパネルの下にあるサイドテーブルに寄り、その上に広げられたままになっているディナーパックから箸を取った。賞味期限は今日の午前10時。夕べ届いた時には湯気をあげていた牛肉の煮付けも今はすっかり冷えている。しかしこれから用意する時間はない。仕方がない。
昨夜の残りを片付け終わるとシャワールームに入った。衣類はベッドとシャワールームの間の壁にあるクリーニングシュートへ放り込む。これから汗をかくというのにシャワーを浴びても意味が無いかもしれないが、これは気分の問題だ。汗をかくからこそ、出発の時は真新しい下着をつけて、こざっぱりとした気分になりたい。
扉は閉めない。わたし一人しかいないし、外からは見えないのだから気にする必要はない。トロント市警時代に身についた習慣だ。当時借りていたフラットはカッパーワイアードな部屋で――つまり、昔ながらの電話線が残っている部屋で――電話器が浴室から離れたところにあり、扉を閉めていると水音の反響で呼び出し音は聞こえなかった。今横浜で借りているこの部屋は、シャワールームにも屋内回線が通っているので、開けておくことに意味はない。湿気が早く抜けることぐらいだ。未だに扉を開いて使うのは、ただそういう習慣になってしまったというだけだ。
壁に取り付けられた金のシャワーノブを押しあげると、ぬるいお湯が頭上から降り注いだ。しばらくして熱くなる。我慢できないほどではない。
身体が温まってくると、湯気といっしょに眠気が足元から這い上がってきた。もうしばらくすれば、血圧も上がり眠気は抜けていくだろう。腿を流れるお湯の上からマッサージするようにこすると、指先に硬くしまった大腿筋を感じた。警官時代にジム通いを続けたが、それでも今ほどにはならなかった。自転車を使うエリアパラメディックとなったことを教える身体的な変化だ。大腿部の脂肪率も下がっている。壁によりかかり、身体をさらに屈伸させ、ふくらはぎを掌で揉みほぐす。片足を持ち上げ、つま先を掴んで踵の腱をゆっくりと伸ばす。まずは右足から。次いで左足。
チャイムが鳴った。
こんな朝から誰だ。通話パネルを見上げる。湯を止めた。頭髪から雫が滴り落ちる。前髪を大きく後ろに払い、身体を捻って扉の裏側にある手すりにかけられたバスタオルを取ると首にかけ、顔を拭く。チャイムは繰り返し鳴っている。受信ボタンを叩いた。
「柊ですが」
『JCヨコハマHQの南です。柊さん朝早く済みません』
南は知っている。横浜周辺のエリアパラメディックの行動を管理・把握する、ハンドラー部門の人間だ。
『‥‥顔が映らないのはなぜですか』
「故障したらしいわね」
シャワーを浴びていたから、とは答えにくかった。
「何かしら」
『富士見PS(パラメディックステーション)に出る前にヨコハマHQの警備事業部の秘書室に立ち寄ってください』
「どうして」
『HQCOO(本部最高作戦責任者)秘書室からの指示で、用件のみ。理由は開示されていません』
「警備事業部が何の用なの」
『すみません。理由は先方に直接聞いてください。ちょっと話を聞きたいとかで。要件はすぐに済むそうです』
「いつまでにつけばいいの」
『午前中に』
「了解したわ。これからだと‥‥9時頃に着くわね」
『そう伝えておきます。それじゃ、失礼します』
「ご苦労様」
回線は切れた。バスタオルで髪を乱暴に拭いてから全身の水滴をふき取った。身体はもう冷え始めている。
あと数時間もすればパラメディックステーションに出勤したところで連絡がついたはずだ。出勤前に直接自宅に連絡してくるというのは、異例と言えば異例だった。第一、パラメディックは保険事業部に所属している。
面倒なことになる予感があった。