偽装
1.

 風防の下から巻き込む風が頬を切る。手袋ごしにバーハンドルを握る指先は痺れていた。外気温は8℃まで下がるという予報だったが、だとすれば今の体感温度はマイナス10℃程度になるはずだ。しかし熱と水分の制御機能層をスパンデックスで挟み込んだセパレートのアンダーウェアが必要以上に体温が漏れることを防いでくれる。冷えて仕方ないのはアンダーウェアがカバーしない部分――つまり、手首から先、首から上、くるぶしから下だ。ペダルの冷たさが靴底を通して足先に伝わり、風防の隙間から入り込む風はとても乾いている。足指の感覚はとうに無くなっており、唇は割れて痛い。
 急がなければ、これほど厳しく冷やされないことは解っている。しかし、緊急のパラメディック呼び出しを受けて、急行しないわけにはいかない。深夜の街に車の姿を見かけることは少なく、走るのは楽だった。街灯の冴えた光を幾つもくぐりぬける。
 馴れた道。首都高狩場線を左手に交差点を抜けるたびに眺めながら井土ヶ谷方面へ走る。コールの発生地点は浦舟町からさほど遠くない場所で、それが皮肉といえば皮肉だった。浦舟町では総合医療センターの施設がその威容を誇るが、コールを出したクライアントがそこを利用できるかどうかは運次第だった。同センターは3次救急施設で、危険な重篤状態か他の2次救急病院が満杯状態でない限り利用されない。つまり、よほど運が悪くない限り、深夜このセンターは利用できないわけだ。
「209より01」わたしはパラメディック横浜管制を呼ぶ。「近い。誘導を」
 喋ると風防の内側が曇った。
『01より209。ヨコザワハイム前』
「だから、どこ」
『209、次の交差点を左折だ。路上。コールは路上からあった』
 妙な言い方だと思った。歯切れが悪い。
 ポンピングブレーキをかけながら左折。指が思うように閉じず、焦る。初期処置が必要なとき、指が動かないのでは話にならない。
『209、そこだ。5メートル円内』
 自転車を降りるとペンシルビルの壁に立てかけた。上着のポケットに両手をつっこみ、指先を温める。わたしは周囲を見渡した。短い横道。突き当たりは川沿いの道で、そのすぐ向こうには植え込みがあり、堤防と柵が視界を遮る。ヨコザワハイムなる表札はこの道路に東側を面した建物の入り口にあった。扉の脇にはインターホンがあるが、たぶん顔面照合装置を兼ねるのだろう。ガラス張りの扉ごしに暖かそうなダウンライトに照らされたエントランスが見えるが、中は無人だった。
 通りも無人だ。頭上から静かな走行音が聞こえる。狩場線を行き来する車輌のタイヤと路面との摩擦が起こす音だ。
 念の為、通りを抜けて向こう側の道路に顔を出し、左右を見渡した。建物の際に鉢植えの何かがずらりと並んでいるのが見え、そのさらに向こうで軽トラックが路肩で冷えているのが見えた。しかし、やはり無人だった。誰もいない。何かでてきそうなまでに人気が無い。
「209より01、今もコールは出ているの?」
『209、コールは2.5分前に30秒続いた。今は出ていない』
「209より01、誰もいない。クライアントは呼び出しには?」
『209、クライアントはオフ。グラスカメラを装着して絵をこちらへ』
 サイクルメットの風防を上げる。業者の冷凍庫に飛び込んだようだった。涙がこぼれる。手袋をしたまま胸ポケットをさぐり、会社支給のミラーグラスをかけた。夜の明度に対応して、今は殆ど透明に近いほどに薄い。
「209より01、絵は見えてますか」
『209、良好。周囲を観察してくれ』
 もしかしたら管制は赤外映像を見たいのかもしれなかった。しかし、これほどまでに冷えた夜に、痕跡は見えるのだろうか。
『209、しばらく息をとめてくれないか?』
「なんで」
 思わず答えていた。
『209、呼気の熱が邪魔なんだ。申し訳ないが、数十秒息を止めて周囲をパンしてくれ』
「01、了解」
 言われた通り、息をとめたまま体をまわし、その場で一周する。
「01、建屋内ではないのね」
『209、その点は確かだ。――209、巡回に復帰』
「209より01、了解。巡回に復帰します」
 はずすのが煩わしい。グラスカメラをかけたまま風防を下ろす。冷えてきた。アンダーウェア自体に熱制御機能があるといっても、ヒーターが組み込まれているわけではない。ウェアそのものがゆっくりと冷えていき、いずれは凍えることになる。
 自転車に戻る。わたしという熱源を失い、自転車はさらに冷えていた。いい加減、待機所に帰投したくなる。
 ペダルをこぎ、元来た大通りに出ると、港方面から来たA5――救急搬送ロボット5号が医療センター前の交差点でUターンするのが見えた。
 人騒がせなクライアントだ。
 この寒さで装着監視装置が異常動作したのかもしれない。その時は思った。

'Camouflage'
Satoshi Saitou
Create : 2002.10.02
Publish: 2011.01.27
Edition: 2
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