冬の街を走る。最初の年は今の季節も春先のように思えた。トロントはずっと寒い土地だ。今ではこれが冬の寒さだと思える。順応したわけだ。寒さに弱くなってしまったのかもしれない。もしかしたら、もうトロントには帰れない身体になってしまったのかもしれない。冗談だが。
関内駅前、根岸線沿いの大通りを走る。線路の高架に接して設けられたペデストリアンデッキから片側3車線道路を見下ろす。交通量は多い。
富士見PSが所轄する範囲は、おおむね伊勢崎町あたりから港湾部までの狭いデルタと山手町の丘陵地帯だと思っておけばいい。所轄範囲はさらに8分割され、各区画に1人のパラメディックが割り当てられる。割り当てにはローテーションが組まれる。ただし山手の丘はスクーター組の担当だ。自転車組は平地を任される。
もっとも四六時中走っているわけではない。適当に休憩を取る。ただし、パラメディックの位置情報は横浜管制に筒抜けだからさぼることはできない。
中華街のある山下町周辺を担当するときは、山下町公園に近い光華菜館でよく休憩をとる。ここの胡麻饅頭はお気に入りだ。胡麻饅頭と烏龍茶。烏龍茶には脂肪を分解する効果があるのだという。
光華菜館の店主は在日中国人で、劉さんと言う。そのご亭主は日本人だ。ご亭主は厨房に立ち、店主は接客を担当している。先代は2人の結婚契約には反対したのだという。そうした話を聞ける程度には顔見知りになっている。毎週必ず1日か2日は顔を出して、点心と飲茶を頼んでばかりいるのだから顔も覚えられるだろう。
「葵さん。あなたのことを尋ねた人がいたわよ」
劉さんがティーポットをテーブルの上に置いて言った。わたしを? 店主を黙って見上げる。
「ここによく顔を出す保険会社のパラメディックがいますね、と訊かれたわ。今度紹介してくださいって」
戸惑いが顔に出てしまった。劉さんはころころと笑う。
「ごめんなさい。そうは言っていませんでした。まぁ、そんなことを訊かれたのよ」
「どんな人です」
「あちらのテーブルにいる人」
その目線をたどる。畳んだコートを背にかけた椅子に男が座っている。薄いグレーのチョッキ。ワイシャツにネクタイ。じっとテーブルを見つめ、湯のみを手にしている。襟元からワイヤが伸び、耳元に消えていた。
「誰なんです」
小声に訊く。襟元から耳に伸びるワイヤが気になった。同業者じゃないだろうか。有線はローテクの類だが、一種のイコンとしてあえて使うところもある。あるいは競馬中継でも聞いているかだ。それだって有線は珍しい。だいいち、場外馬券場なら近くにある。
「さぁ。ここら辺で時々見かける顔ですよ。どういう仕事をしているのかは知りませんけどね。昼間っからここらあたりうろついていたりするから」
そう言って肩をすくめた。この解りやすい格好をしていなかったら、自分も何を言われたか解ったものではない。
「それで‥‥」
「相席していいですか、って」
見ていると、男は黙ってお茶を飲む。こちらには気づいていない。あるいはそのふりをしているのか。男の表情は硬い。少し考え、答えた。
「ええ。いいですよ」
「それじゃ、伝えてきますね」
劉さんはウィンクして去った。思わず苦笑する。たぶんそんな用事なんかじゃない。
男は鏑木と名乗った。
「警官――刑事というやつです」
そっと打ち明けるように話すのが可笑しい。
「それで、その‥‥ご用件は」
テーブルの上にはいつものサングラスを置いてある。そのつるに埋め込まれたカメラは鏑木を捉えているはずだ。この刑事は知っているのだろうか。ふと、気になった。自分が監視されていることを承知しているのだろうか。
鏑木は思い出したように椅子の背にかけたコートに振り向き、ポケットを漁った。黒い手帳を取り出す。
「見たことありますか。本物ですよ」
「そう見えますね」
しかし刑事には見えない。30代半ばに思える、その男、鏑木は、テーブルをわずかの間凝視した。小さく咳払いする。警察手帳をコートに戻した。振り向きざま口を開く。
「今、窃盗事件を追ってましてね」
パラメディック相手に何を言い出すのか。続きを待つ。
「いわゆるひったくりって奴で、ガイシャはその場は動転したもののすぐさま最寄の派出に駆け込み――おたくのお客じゃなかったようで――その後警邏の不審尋問でひっかかったわけです」
「それじゃ、もう捕まったんですね」
「今は拘留中です。今日で1週間か」
「不審尋問で挙がったのですよね」
鏑木は怪訝そうな目でこちらを見た。
「その時、盗品を持っていましてね。確実に思えたのですよ」
「その人は供述したんですか」
「いえ。盗品は拾ったものだと言い張ってますよ。――いや、やっかいなのはそれではなくて、アリバイがあるんです」
パラメディックなら誰でも良かったのだろうか。そんな疑問がよぎる。そうではなく、わたし個人に用事があるのだろうか。
「ちょうど窃盗があった時間は、急病で救急を呼んでいた、というんですよ。おたくの会社です」
耳にはめたイヤホンが鳴る。
『01より209、何も答えるな』
咄嗟に受け答えの言葉が口をついた。
「――なるほど」
興味はあった。しかし管制の指示もわかる。窃盗だからまだ穏便に進んでいるのかもしれない。これが殺人だったらこの刑事の目の色も代わっていただろう。もっとも、担当が違うだろうが。
鏑木はこちらの反応は気にしない様子で続けた。
「それで、その時、現場に――つまり、呼び出しに対応したパラメディックの人にその時の様子を聞きたいと思いまして」
「なぜ、わたしを」
イヤホンは沈黙している。
「まぁ、蛇の道は蛇、ってところなんですが、その時対応したパラメディックが柊さん、あなたらしいということを知りまして、おたくのキングズコートにある事務所にあたったんですが、門前払いをくらってしまいまして。それでここで、言葉は悪いですが、待ち伏せしたというわけです」
「よくわたしだと解りましたね」
鏑木はばつが悪そうに微笑んだ。
「こういう話を聞いて、気を悪くしないで欲しいんですが、その、あなたにはファンがいましてね」
連中に訊いたのか。
「たまたま、というか、まぁ、狙って聞き込みしまして、あの晩、対応したパラメディックがあなただと解ったわけです」
「写真も貰ったんじゃないですか」
連中はよく勝手に撮影する。
「データをね。おかげでここの店主に話を通しやすかったですよ」
「それは良かったですね」
苦笑しながら、テーブルの上のサングラスに手を伸ばし、指先で軽く叩いた。鏑木は何かに思い当たったようにサングラスを見つめた。ちゃんと知っているらしい。
「ただ、パラメディックコールへの対応はこの1週間も何度もあって、正直言って、1週間前の話なんておぼろげにも覚えていません」
「そうですか。‥‥それは残念です」
「覚えていたところで参考になったかどうか」
「いや、可能性が消えるだけでもこちらにとっては進展でしてね。なんでも構いませんから、何か思い出したらご連絡いただければ。山手署の鏑木ですから」
「伊勢崎署の方ではなかったんですか」
鏑木は小さく笑った。
「柊さんは富士見町のPS詰めですよね。伊勢崎署は目と鼻の先でしょう。そこの者だったら直接お邪魔してますよ。さすがに彼らの目の前をうろつくのも気が引けましてね。面が割れてる身なもんで」
「なるほど。いろいろあるんですね」
「ええ、いろいろと。お互いに」
最後の言葉は聞き流す。
「それで、ひったくりにあった方の被害は」
「盗品扱いか遺失物扱いか、ということはあるんですが、実質的な被害はありません。証拠品ということで、まだ持ち主に戻してはいないんですがね」
「それじゃあ、それほど急いではいない?」
「そんなことはありませんよ。真面目で誠実な警察ですから」そう言って自嘲気味に微笑む。「それほど深刻にはなっていません。そんなところです」
鏑木は立ち上がった。
「どうも、休憩中にお邪魔しました。何か思い出されましたら――」
「山手署の方に」
「ええ。お願いします」
コートを取り、鏑木はレジに歩いていった。