ヨコハマの街は見飽きているはずだが、オフの日もここに来てしまう。関内から桜木町までの線路沿いに続くペデストリアンデッキ。自転車を押して。微かな風きり音を残してリニア車輌が脇を滑り行き交う。
薄曇りで、運動をしていない今はいつものスキンウェアを着ていてもさすがに肌寒い。
この通りが好きなのは、視界が開けているからだ。リニアを挟んで両サイドに道路がある関係でカーテンウォールもそれほど圧迫感を感じない。南を向けば山手の丘。北を見れば横浜駅の特徴的な駅ビルが目に入る。湾岸部における都市型開発の成果を見たければここに来ればいい。この界隈はランドマークが集中している。近代的な街の姿というのは嫌いではない。
手すりにもたれれば流れる車の列が下に見える。この付近は強制管制で車の流れは粛々としている。おとなしくないのは管制されない2輪コミュータだ。おとなしく流れる車の間隙を縫う。待ち構えていれば、同僚の誰かがいずれここを走るだろう。もちろんそんなものを待つつもりはない。
自転車に跨る。このデッキは桜木町を過ぎた先で二股にわかれ、片方は道路をこえて反対側の歩道に接続し、もう片方は線路をくぐり、線路を挟んだ向こう側のデッキに接続している。関内方面も似たようなもので、つまりこのデッキはサーキットになっている。適度な距離を持ち、適度に広く、人が多いわけでもない。暇つぶしと筋力維持のためには頃合の場所だ。
ペダルを踏む足に力をかけようとしたとき、後ろから呼びとめられた。鏑木だった。
「悪いけど、あれから何も目新しい情報はないわ」
「そうですか。いや、それはいいんですが‥‥」
鏑木は隣に立った。くたびれたコート。微かに整髪剤の匂いがする。目の下に隈ができていた。
「あなたの同僚が捕まったそうですよ」
「誰が」
「いや、そこまでは。戸部署管内なんでね。さっきそういう無線が流れまして」
「そんなこと喋ってしまっていいんですか」
鏑木は小さく笑った。
「隠すもなにも、戸部署からそちらの会社に連絡が行っているはずですよ。捜査上の秘密というやつではないです」
誰だろう。戸部だとすると、あのあたりは浜松町PSの担当区域だが、警察の所轄と一致しているわけではない。
「ご親切に、それを教えてくださるために?」
「たまたま見かけた時、たまたまそういう事が起きていただけです。‥‥今日はサングラスをかけてはいないんですね」
「携帯していはいますけどね。非番ですから」
「実は、先日の件に関して妙なものが手に入りましてね」
鏑木は何か答えが返るのを期待しているようだったが、何も答えず、ただ見つめて続きを待った。
「‥‥それで、近いうちにご協力していただくことになるかもしれません」
「情報提供?」
「いえ、そういった形ではなく、です」
「おっしゃりたいことが解りません。それと、警察と直接話をするなと言われてて。できれば、上を通して欲しいんですけど」
鏑木は目をそらし、苦笑した。
「潜入捜査の協力とか、そういうことではないんですよ。ただ、我々の捜査活動の過程で、そちらにご迷惑をおかけすることになるかもしれません」
「なおさら、上と話をしたほうが良さそうですけど」
「それには、我々も上を通さなければならないわけで‥‥それは避けたいんです」
そう言って、にやりと笑う。これは餌だ。警官時代の経験が囁く。思わせぶりな空疎な言葉で何かを引き出そうとしている。
「何を期待しているのかわからないけど、そっとしておいて欲しいわ」
「例のミスコールは放って置いてはくれないでしょう」
「どういう意味です」
「さすがに、それは今は。‥‥済みません、あなたの次の勤務時間と担当地域を、できれば教えてもらえませんか」
「なぜです」
「その‥‥待ち伏せできるようにです」
思わず吹き出す。
「いいわ。明日の第1シフト。午前0時から8時よ。受け持ちは狩場線と大岡川に挟まれたデルタで、関内駅より西。適当にぐるぐる走ったり、デスクワークしていたり。でもわたし一人で受け持っているわけじゃないわ」
「まぁ、そこらへんは‥‥あ、せっかくの非番なのに呼び止めて済みません。ご協力ありがとうございました」
「どう致しまして」
ペダルを踏み、鏑木から離れる。妙なことを言う、と思った。しかし、鏑木との会話を思い返す前に確かめておきたいことがあった。腰に手をやり、ランバーバックのポケットを開いて中からサングラスを取り出し、かける。
「一般内線。富士見PS事務室へ」
タエコの声が答える。
『はい‥‥こちら富士見パラメディックステーションです』
「タエコ? 柊よ」どう切り出せば良いのか迷った。「何も変わりはない?」
『葵!』悲鳴のような声。『平戸が警察に連れて行かれたの』
「平戸が? なぜ」
『よく解らないけど、そういう連絡がHQの方にあったんだって。今はそれしか解らない』
自転車を止め、今来た方を振り返る。鏑木の姿はすでになかった。
『彼、コールを受けて、紅葉ヶ丘のマンションに向かったんだけど、依頼人はいなかったって。そういうやりとりはこちらも知っているけど、そこにどういうわけか警察が来たらしいの』
やられた、と反射的に思った。ハメられている。
しかし、すぐにそれはおかしいことに気付く。今さっきの鏑木の言葉と、平戸の件がどうつながっているのか解らない。第一関係があるなら、鏑木は取引に使おうとするはずだ。あるいは警告を匂わすか。だいたい、違う所轄が互いに連携するというのも変だ。富士見PSなら伊勢崎署が目と鼻の先にある。
タエコは叫びだすのを必死で抑えているようだった。
『‥‥ねえ、聞いてる? どうしたらいいと思う? 今、皆出払っていて、本当に誰もいないのよ』
「落ち着いて。きっと、参考人か何かで呼ばれたのよ。何かに巻き込まれたんじゃないかな」
『何かって』
「解らないわ。でも、平戸はグラスカメラを動かしていたんでしょう。記録があるなら‥‥」
『それが、彼、画は拾ってないの。到着して、カメラを動かす前に警察が来たらしいのよ。残っているのは通話記録だけで』
「そう、それは‥‥」まずいわね、とは口が裂けても言えない。言えば確実に錯乱するだろう。「タエコ、わたしこれからそっちに行くから。それまでしっかりとHQからの連絡を待つのよ」
『‥‥うん。解ったわ。そうする。ケーキがあるから、葵も食べて』
「じゃあ、ケーキを食べながら、考えましょう。いいわね。それじゃ」
考えてどうなるものじゃないことぐらい解っている。それでも話相手になってあげれば彼女は落ち着くだろう。
それに、警察からHQに伝えられた情報が流れてくるかもしれない。情報そのものは、鏑木に話を通せばもしかしたら入手できるかもしれなかった。しかし、おかしな借りを作りたくはない。