18時。普段と変わらず当直のシフトが終わる。今日はデスクで迎えることができた。昨日はまだ走っていた。終わり間際で急病のコールが出たのだ。行って見れば生後1歳程度になるクライアントの長女が熱でひきつけを起こしたという。コールを出したのが遅かったためか、到着時すでにひきつけは治まっていた。ひきつけは5分も続かなかったという。典型的な熱性けいれんの症状と思われた。
やっかいだと思ったのは、そのクライアントは家族保険に入っていないことだった。実際に搬送しなければならない事態となれば、もちろん搬送しなければならないが、その後契約関係で多少もめることになっただろう。
一応クライアントとその夫に、熱性けいれん時の対応を一通り教え、ついでに、保険契約の内容についてそれとなく触れておいた。あまり気持ちいい話ではない。
今日はそんなこともなくPSにたどりついた。こういう日の残った時間はとても貴重な気がする。時は金なり、と言う。しかし金と交換したくはない。時間は時間として使いたい。無駄なく使うのもいい。あえて何もしないのもいい。そういう時間は買えるものではない。
それに明日のシフトは長い。正午から始まり、終わりは明け方だ。ワインでも飲んでゆっくり眠りたい。帰る前にランドマークの向こうに寄ってブティックをのぞいていくのもいい。向こうにはインポートものが集まる。ヨコハマ外部からの流入品ということだ。もちろん言葉通りの意味での輸入品もある。ただ、残念なことにカナダ製品は見かけない。多いのは統欧製品だ。
脚は張っていたが、ペダルを踏めないほどではない。そこまで乳酸が溜まっていたら、いっそ寝袋を出してここに泊まった方がいい。
しかしロッカールームを出たところで桜とタエコにつかまった。
「一緒に食べていかない?」
「どこで」
「ロッソ」
ロッソは海鮮料理が中心のイタリアレストランだ。元町の奥まったところにあってあまり知られていないらしいが、ここのPS内ではよく使われる。
「つきあうわ」
元町なら殆ど帰り道だ。
「――皆、歩き?」
「自転車よ。あたりまえでしょ」
「タエコも?」
「今日はね」
「じゃ、行きましょ」
店は汐汲坂の途中にある。3階建ての強化耐火ビルの3階。この辺り、仲通り沿いにはこの手の強化耐火建物が並んでいる。
店は繁盛しているわけではなさそうだが、まったく寂れているわけでもなさそうだった。いつ来てもコンスタントに客がいるが、10テーブルほどの席が満席になったのを見たこともない。今はイタリア料理自体が流行っていないから、そういうものかもしれない。店の内装は赤レンガを模したタイルが主体になっている。暗めの照明。BGMはかからない。
少なくとも客が少ないことにはそれなりのメリットがある。窓際のテーブルを取りやすい。 わたしは牡蠣とキノコのマリナート、サフランと舌平目のリゾット、それにハーブチキンを頼んだ。桜は茄子のサラダ、イカとトマトソースのペンネ、子牛のサルタート。それに比べてタエコはグリークサラダに白ワイン風味のあさりのスパゲティ、食後にチョコレートムースとコーヒーというつつましいものだった。
タエコはこのことでわたし達をいつもからかう。
「身体が欲しがるんだもの」
桜は言う。わたしも同感だ。一日の消費カロリーがデスクワークのタエコとはまるで違うのだから仕方ない。
「ワインも頼む?」
タエコが訊く。
「白が2本にグラス3つ」と、桜。「1本は葵。もう1本は2人で分ける」
「やめてよ。1本にグラス3つ。何でもいいわ。タエコの方が詳しいでしょ」
「いいわよ。いままで頼んだことのないのがいいわよね」
皿の間の少ない空間を埋めてグラスが置かれてワインが注がれる。暖かい料理と口当たりの軽いイタリアワイン。口も少しずつ軽くなる。
「あんたさ、こないだ平戸と一緒に帰ったでしょう」
桜がタエコに絡む。タエコは済ました顔でワイングラスをあおった。
「あのあとどうなったの」
「どうもこうも。いったい何のお話でございましょう」
「いつまでバレてないと思っているのでございましょう」
それを聞いて桜が笑った。
「まったくそうよね。中学生みたいなんだから、あんたたち」
「あんたたち、とは誰と誰のことかしら」
桜と顔を見合す。
「まぁ、そういうことにしておいてもいいけど。いつ頃契約するつもりなの」
「夏ごろ」
すかさず桜がフォークの先をタエコに向ける。
「へえ。誰と」
「やられた」
タエコは小さく笑う。
「そうなんだ」
「住むところを探しているのよ。目をつけているところが何件かあって、それ次第かな」
「どこら辺?」
「蒔田から堀の内あたりと、ちょっと遠くなるけど大岡のあたり」
「大岡ならまぁ、鎌倉街道一本だし」
「もうちょっと奥まったところだけどね。さすがに街道沿いは人が動かないし、高いし」
「葵はいいところに住んでいるわよね」
「あそこ、山の上だし、高いんでしょう」
「それなりにね。でも、独り身だから払えないほどじゃないし」
「山の上っても、あそこは北斜面だし、他のところにくらべれば」
「確かにそうみたいね。わたしは北向きも南向きもあまり気にしないけど」
「なんで」
「日当りのよさよりも、断熱の方が大切なのよ。北国だから」
「カナダって北海道よりも北だっけ」
「そんなところよ」
「カナダかあ」
タエコがパスタを口に運ぶ。
「旅行で行ってなかったっけ」
「北米はストリームでしょっちゅう見てるから、なんか行ったつもりにはなってるのよねえ」
「じゃあハネムーンはカナダ?」
「ガイドしてあげようか」
「嫌。お願い。ついてこないでね。何言われるか解ったものじゃないんだから」
「嘘よ。わざわざあてつけられについてくわけないでしょ」
それを聞いてタエコは笑った。